それにしても、本当に書くことがなくなってきてしまった。
目的意識ももてずに、日々時間を消費していくのがつらい(笑)
緊急事態宣言は、じきに解除されるんだろうけど、私の人生の目的は「旅」なので、目的を満たせる日が来るのはいつのことやら・・
あらためて思ったけど、カナダやアメリカ、中国やロシアなど、国土の広い国に住んでる人が心底うらやましい。
国内を移動するだけで、ものすごい旅になるから。まさにジャーニーだ。
2019年までの私は、頭の中には仕事のこと、家族のこと、そして異国の旅のことしかなかった。
それこそ、来月はどこへ行く、再来月はどこだ?
決めているのは日程と往復の航空券だけだから、現地でどこを見る、どこで宿泊すると、異国の旅の企画の楽しさが無限に広がっていた。
それが禁じられてから、はや1年と2ヶ月。
あと、何ヶ月待てば、いや何年待てば、身体が武者震いするようなエモーションに浸ることができるんだろう?
旅の道中で撮った写真はかけがえのない記憶の産物
旅の楽しみ方はいろいろある。
中世以前からの街並みが残る旧市街を歩くのもいいし、生活の匂いがぷんぷんするバザールで揉まれるのもいい。
自分が小さくみえるほどの大草原の真ん中に放りこまれるのも、エクスタシーを感じる瞬間だ。
私は、大草原が広がる景色が大好きだ。
上の写真はパタゴニアをバスで旅したときのものだが、この大草原をずっと眺めていたい、そう思ったものだった。
旅していて、しばらくここにたたずんで、景色を眺めていたいという場面に出くわすときがある。
そのとき撮った写真は、まさに宝物。記憶の財産だ。
写真に撮ると記憶に残らないという説がある。
私は、そんなことはないと思う。
写真に収めることで、記録に残り、そしてそれを見返すことで、写真に撮らなかったことまで思い出していく。
それこそ、耳をつく雑踏や風の匂いまで思い出すから、まさに旅は記憶の財産だと思う。
私は自分の部屋に、旅で撮った写真をはりめぐらせ、毎夜それを眺めて懐かしんでいる。
ふたたび、エキゾチックな感覚を肉眼で観ることのできる日を待つとともに、過去の旅を彩った写真群を紹介させていただきます。
大草原のある風景
シベリアの大地をひた走る「ロシア」号。
その車窓に広がる大草原は、私が見たかった大草原そのものだった。
こんな、大草原のど真ん中にたった一人でほっぽりだされたらコワい・・と想像してしまうほど、人工物が一切ない世界だった。
迷路のような旧市街
昔ながらの旧市街をあてもなくブラブラ歩くのは、時間を忘れる遊戯。
そして、歩きまわっているうちに、この路地を曲がるとあそこへ繋がる・・などとアタマの中に地図が出来上がっていくのが、とてつもなく楽しい。
とくにバラナシの旧市街は、サリーをまとった女性、無尽蔵に飛ばすバイク、悠然と歩く牛が入り乱れてるので、街の様子がそのまま劇場のようである。
遺跡のある風景
人類の歴史をはぐくんできた世界遺産。
世界遺産でなくても、遺跡・旧跡には、はるかな時に人類の英知が集約されている。
上の写真は、インドネシア・ボロブドゥール。
観光客と一緒に、未明から訪れ、夜明けを待った楽しい思い出である。
川のほとりに静かにたたずむ
世界一の大河ナイル川。
そのほとりに座って、沈みゆく太陽を目で追っていると、「エジプトはナイルの賜物」という意味がわかりかけてくるから不思議だ。
じっと眺めているだけで、この川が、悠久の歳月をかけてエジプトという国土を潤してきたことを感じられる。
ちなみに、座っているのは「マクドナルド・アスワン ナイル川河畔店」のテラス。
川岸に立ってると、フルーカ乗りの勧誘がすさまじく、マックに逃げ込んだことを思い出す。
異国の海に浮かぶ楽しさ
日本人は海と縁深い。
だからこそ、異国の地では、できる限り、海と接したい。
外洋である以上、この海水は、毎日見ている東京湾とつながっているのだな、と考えるだけでも楽しい。
しかし、一人旅では、浜辺に残してある荷物が心配。
紅海の塩辛い海に浮かびながら、30秒おきに浜辺を振り返った楽しい思い出だ。
自分の部屋にしたくなるホテルの窓
深夜にホテルにチェックインすると、朝が待ち遠しい。
まだ、自分のいる街を眺めていない場合は、なおさらだ。
上の写真は、ボスニアヘルツェゴビナ・サラエボの旧市街バシチャルシアの入り口付近にある「ヘッコ・デラックス・ホテル」の窓からの景色。
前の晩は、セルビアからのバスで着いたばかりだったので、実質、この朝がサラエボとの初対面。
ほんとに、一日中眺めていたくなるような景色だった。
展望台からの絶景
地球が丸く見えるような絶景である。
場所は、カンボジアのプリア・ヴィヘア。
「天空の寺院」とも称される遺跡と絶景の両方が楽しめる観光地。
実は、背後はタイとの国境で、紛争が絶えなかった地域であったことも、自分を小さく見えさせる。
砂漠の中のクルージング
古代からの旅人にとって、砂漠越えは、苦行以外のなにものでもなかっただろう。
そこを、文明の乗り物に乗って、サーッと通過してしまうのは、ある種の快感だ。
上の写真は、ゴビ砂漠の南端をシルクロード新幹線に乗って、時速200km以上で突っ走るシーン。
下は、イラン・キャビール砂漠。
夜行バスで寝過ごし、あわててイスファハーンに戻ろうとしている図。
そんな旅のイベントを、赤茶けた砂漠の上で行われてるのが不思議に思える、バスからの車窓だった。
世界の車窓から
鉄道の旅は楽しい。
その国の生活風景を、見事なまでに映し出してくれるからだ。
近づいてくる重厚な機関車。
こんな細いレールで、受け止めきれるのかと心配になったが、予想通りにスリランカの列車の乗り心地は最悪だった。
それでも、イギリス植民地圏では、各国では廃れゆくこんな鉄道が健在だから嬉しい。
日本では絶対に見かけない、こんな乗り方を観察できるのも、鉄道の旅の楽しみ方である。
高台からの風景
街を散策する際、その街で、もっとも高い場所に行きたくなる。
旧市街をさまよう前なら予備知識になるし、散策後であれば、なるほど、という気持ちになる。
場所は、チュニジアの世界遺産都市スース。
このリバトの塔は、一人分の足場しかなかったが、幸いにも私を追い立てる観光客はなく、地中海からの風を感じながら、旧市街の俯瞰図を独占できた。
手の凍える氷点下の世界
私が今まで経験した最低気温はマイナス21度。
12月の中国・黒竜江省ハルビンでの体験である。
雪が降っているわけでもなく晴れているので、画像から寒さを感じることは難しいかもしれないが、間違いなくカイロがなければ指先が凍る冷たさだった。
写真の川は松花江。
氷の厚さは1m。歩いて渡るに十分との情報だったが、割れて落ちたら凍死である。
おっかなびっくり、這うように渡った楽しい思い出だ。
幻想的なモスク
世界を旅していて外せないのが、モスクのある風景。
イスラム教徒は、この地球上に18億人もいるというのだから、旅する都度、モスクと出会うのは必然だろう。
しかし、なんとも筆舌にしがたい美しさであることか。
あの丸みの表現など、どんな技術を使っているのか、まったくもって見事である。
写真を眺めているうちに、また「外国へ行きたい病」が発症してしまった。
写真で、旅を楽しめるのは、まさに自分が体験した記憶の復習だからだ。
だから、私にはバーチャル的な旅など、まったく興味が湧かない。
いくら技術がすすんでも、日本とは明らかに違う風のなで方、海や河川の匂いなどまで表現するのは無理だろう。
はやく、世界が平常に戻ってほしい。