宗像大社の辺津宮の散策を終えた時点で15時。
対馬に渡るフェリーは深夜の出航なので、もう一か所、「古事記」ゆかりの社をたずねてみましょう。
博多からあまり遠くには行けないので、今いる東郷から帰り道ともいえる「香椎宮」に寄ってみることにしました。
「香椎宮」は、あの「ヤマトタケル」の子供であり第14代天皇である「仲哀天皇」が神に背いたとして崩御した場所。
実在していたかどうかは別として、「仲哀」なんて素敵な名前だ・・
最近、興味をもちはじめた「古事記」に登場する人物の中でも好きな天皇の一人です。
松本清張「点と線」に登場した香椎の町
「宗像大社」をあとにした私は、鹿児島本線東郷駅に戻り、JR香椎線の香椎神宮駅に向かいます。
ここで、超余談をひとつ。
私は、推理作家の故松本清張の作品をよく読んでいたのですが、「点と線」という作品に、香椎という町が登場します。
実はそれで、香椎という町の名を、子供のころから知っていました。
簡単に、その場面を記すと、
香椎の海岸で男女二人の情死体が発見される。
その二人は、東京からの寝台特急で来たらしいが、国鉄香椎駅の駅前の果物屋に目撃されている。
いっぽうで西鉄の香椎駅でも目撃情報があり、その情報の差には11分の開きがあった。
国鉄香椎駅と西鉄香椎駅のあいだは、どんなにゆっくり歩いても8分もかからない。
それを11分というのは何故?という疑惑から、担当老刑事が、両駅の間を3回も実地検証を行うという一場面。
「点と線」という作品そのものは、舞台が九州から北海道まで広がる「昭和版トラベルミステリー」。
でも、幼少のころに読んで、記憶に残りつづけたのは、香椎という町。
だから、東郷から香椎神宮まで行くに際し、西鉄を使えば、私も実地検証の仲間に加われるかな、などと考え勝手にワクワク・・
ところが、グーグルマップでその場所を確認すると、時の流れは完全に町の顔を書き換えてしまっていたようでした。
作品が書き下ろされてから64年もたっているんだから、当たり前ですね(^^)
なので、素直に、香椎線香椎神宮駅に降り立ちました。
香椎宮までは、300mとのこと。
仲哀天皇&神功皇后の宮殿「香椎宮」
やって来ました「香椎宮」。ここはまさに「古事記」ゆかりの地。
大和政権の英雄ヤマトタケルの子供「仲哀天皇」。
ヤマトタケルが平定したはずの熊襲(当時の鹿児島のあたり)がまたしても暴れだしたので、再び征伐へ。
その征西において、妻の神功皇后とひと時を過ごしたのが「香椎宮」です。
祭神は「仲哀天皇」「神功皇后」だけでなく、「神功皇后」の息子「応神天皇」。
そして「神功皇后」に憑依したとされる「住吉三神」。
ちなみに「住吉三神」は、三貴子「アマテラス」の姉弟ともいえる神にあたります。
すごいな・・
「古事記」スーパーキャストともいえる陣営じゃないですか。
そんなことを考えながら、重厚な楼門をくぐります。
本殿に入る前に、少し広まった参道にいろんな史跡があります。
これは勅使館で、勅使参向の際に使われる建物。
勅祭とは、天皇の勅使が派遣されて執り行われる御祭のこと。
香椎宮は、全国で16ある勅祭社のうちのひとつ。
つまり、皇室ゆかりの社として、伊勢神宮、明治神宮などと肩を並べています。
これは、神功皇后が誓いの祈りをした場所とされる「綾杉(あやすぎ)」。
本殿を眺めながら「神功皇后」の新羅遠征を回想する
風格たっぷりの本殿は建立が724年。
そして、1801年に福岡藩主の黒田斉清により再建。
「香椎造」という日本唯一の建築様式だそうです。
それもそうだけど、やはり、ここで起きた「仲哀天皇」と「神功皇后」の悲しみと強さに満ちた神話が素晴らしい。
本殿の周囲を歩きながら、「古事記」後半の一場面を回想してみる。
「神功皇后」に憑依したとされる「住吉三神」。
そのとき「仲哀天皇」は琴を弾いていた。熊襲征伐の成否を神託に求めたのである。
そして、憑依された「神功皇后」が告げた言葉はなんと、「新羅(朝鮮半島)を攻めよ」。
それに対し、「仲哀天皇」は「高いところに登っても西方には大海原しか広がっていない。」と、神託を信じない。
「仲哀天皇」は、その後まもなく病にかかり崩御したという。
悲しみに暮れる「神功皇后」は、身ごもっているにもかかわらず、自ら軍隊を率い、朝鮮に出兵。
波、風、すべてが神功皇后軍に味方し、突然の来襲におそれおののいた新羅は、あっさり降伏。
神功皇后の軍勢は、百済と伽耶までも服属。三韓征伐となる。
このとき、「神功皇后」は産まれそうな「仲哀天皇」の皇子を我慢し、筑紫の地に戻ってから産み落としたという。
これは事実か神話か。
いずれにしろ、ダイナミックな4世紀後半の出来事だ。
ところが、1880年に中国吉林省にて「広開土王碑」が発見され、大騒ぎとなる。
その碑文には、「391年 倭が海を渡って百済と新羅と加羅を破り・・」と記されているのである。
この時代、九州と新羅に国交があったことは間違いないのだろう。
神話の世界は、とても面白い。そしてロマンがある。
創作物だったとしても、元となるノンフィクションがあったはずだから。
「世の長人」タケウチノスクネ(武宿内禰)の像
タケウチノスクネ(武宿内禰)。
古事記において、「成務天皇」「仲哀天皇」「応神天皇」「仁徳天皇」の4代にわたって仕えた宮廷諸臣の最高官。
享年360歳ともいわれる長寿だったとのことだが、私が惹かれたのは産まれたばかりの「応神天皇」をしっかりと抱きかかえる像。
神功皇后の新羅遠征時に、皇后を援助し、船上で懐妊しかけた皇后をまもり、天皇後継ぎ争いで血に汚れた皇子を清めるため、禊の旅に出る。
このタケウチノスクネ(武内宿禰)の献身がなかったら、天皇家は大陸の前にどうなっていたかわからない。
その武内宿禰を祀る武内神社が、香椎宮に寄り添うようにたっています。
ちなみに、香椎宮から300mほど離れたところに「不老水」という泉があり、武内宿禰はこれを飲んで長生きしたという。
武内神社の反対側に、香椎宮を支えるようにたっているのが巻尾神社。
神功皇后を補佐したのは武内宿禰だけでなく、五大臣の中臣烏賊津(なかとみのいかつ)も、新羅遠征時に皇后を支えた家臣の一人。
武勇にたけており、勝負運向上や武芸上達の御神徳があるとされています。
「仲哀天皇」崩御の地
では、香椎宮から少し離れた「仲哀天皇」崩御の地をたずねてみましょう。
香椎宮の境内を出て、公道を歩きます。
武宿内禰の不老水も、この先にあります。(写真を撮り忘れましたw)
まず目に入るのが「神木」。
案内板にもあるように、ここが香椎宮起源の地。
仲哀天皇が国家鎮護の拠点とした場所であり、かつては香椎廟と呼ばれていました。
そして、その奥へ進んでいくと・・
仲哀天皇の崩御した地に碑が立ってます。
新羅征伐の神託を信じなかったため、病にかかり崩御した仲哀天皇。
暗殺説もあるこの崩御について、私は哀しみを禁じえない印象を受けます。
仲哀天皇は、他国を攻めることを忌み嫌う平和主義者であったのでしょうか。