さて、「哲学の道」「真正極楽寺(真如堂)」ときましたが、とくにあてのない一人旅。
いや、あてはあります。サクラです。
桜を観に来たんだから、桜を拝める近くの寺院は・・と「まっぷる」でさがすと、「真如堂」のすぐ南に「金戒光明寺」というのがありました。
さっそく行ってみましょう。
「くろ谷さん」の名で親しまれる「金戒光明寺」とは
比叡山を下りた法然上人が、草庵を結んだのが起源となる金戒(こんかい)光明寺。
南北朝時代に、北朝の後光厳天皇が、非常に尊い「戒」を授かったことから、「金剛のように尊い宝の戒」として、「金戒光明寺」と呼ばれるようになったらしい。
京都の人からは「くろ谷さん(くろだにさん)」と呼ばれて親しまれているが、幕末には京都守護に任命された会津藩の本陣が置かれた、新選組誕生の地でもある。
ところで、なぜ「くろ谷さん」と呼ばれるのか疑問に思っていましたが、法然上人が比叡山延暦寺で修行をしていた頃、その場所が黒谷という土地だったからとのこと。
ちなみに、現在の「金戒光明寺」の住所は「京都市左京区黒谷町121」です。
「真如堂」から「金戒光明寺」へ
「真如堂」の正門を出た私は、細い道を南へ歩きます。
途中に現れるいくつもの塔頭。
桜も並びます。
そして、歩くこと5分ほど。御影堂(大殿)の側面が目に入りました。
「くろ谷さん」の境内を歩く
御影堂の前に回って、立派な大殿を眺めます。
法然上人第二十四番霊場のようです。
こじんまりとした寺院かと思っていましたが、境内はけっこう広い。
こちらは、1605年に豊臣秀頼が再建した阿弥陀堂。
こちら側からは、京都盆地を見下ろせそうです。
もう少し高い場所からだと、ベストアングルになりそうです。
でも、夕方や夜は綺麗だろうな。
あちらが、正門にあたる山門ですね。
山門に下る前に、もう少し境内を散策。
ここ金戒光明寺は、あの新選組発祥の地。
幕末の京都は、まさに無政府状態。
暗殺や強盗が相次ぎ、荒廃しかけている京都の治安維持に、徳川幕府が新しい職制をつくったのが京都守護職。
1862年のことなので、ペリー来航から9年後。
そして、生麦事件が発生し、翌年には薩英戦争が起こる。そんな時代背景です。
この地が京都守護に選ばれたのは、東海道の要所に近く、かつ小高い丘になっているため、攻めて来る敵を見渡すことができたからとのこと。
京都守護職には、會津藩が任命され、藩主松平容かた保もりが京都守護職・正四位下となる。
その會津藩が、将軍上洛警備のために結成された浪士組を従えることとなり、近藤勇や芹沢鴨はここを拠点に、京都の治安維持のため縦走する。
壬生に設えられた新選組の屯所と、ここ黒谷本陣との間では、毎日のように時局の報告がなされていたという。
山門を彩るソメイヨシノ
さて、山門にむかって石段を下ります。
楼上正面には、「浄土真宗最初門」とあります。
どうなんだろう。満開といっていいのかな。
1860年に再建された山門を、ソメイヨシノが美しく飾ります。
この時期に「くろ谷さん」に来れたことが、素直に嬉しい。人もいないし。
會津墓地参道への架け橋「極楽橋」
金戒光明寺の散策は、これで終わりですが、この付近には、もうひとつ見どころがあります。
というより、金戒光明寺の敷地内といっていいのかな?
石畳の小路を東へすすむと、現れるのが「極楽橋」。
京都の社寺では、もっとも古い石橋とされています。
金戒光明寺を陣営とした會津藩の墓地参道へとつながります。
極楽橋の下は、蓮池。
源平の戦いで有名な武将・熊谷直実が、法然上人との出会いで出家を決意。兜と弓を置きました。
その弓の形が、この極楽橋の起源と伝わっています。
兜を置いた場所という事から、蓮池は「兜之池」とも呼ばれています。
あの三重塔は?
さっき見た「真如堂」の三重塔かと思いましたが、「文殊塔」という別の塔です。
會津藩墓地参道を埋めつくす桜並木。
せっかくなので、「文殊塔」をのぞむ石段をあがってみましょう。
桜を帽子にした仏様。
石段を上ってみると、京都の町が広がります。
京都守護職が置かれたのも、新選組が拠点としたのもわかりますね。
ソメイヨシノの美しい「くろ谷さん」金戒光明寺でした。