「隠岐神社」後鳥羽上皇を祀る島前・海士町のシンボル【隠岐一人旅 #9】

昨日から、隠岐諸島の神社をめぐってきましたが、名前もズバリ「隠岐神社」。

ようやく真打ち登場という感じです。

私が言うのもおこがましいのですが、隠岐の歴史観は、古事記に伝わる「神話」という面と、政治犯などが流される流刑の島という面を持っていると思います。

そして、隠岐に流された著名人の一人が後鳥羽上皇。

その後鳥羽上皇を祀っているのが「隠岐神社」です。

「隠岐」の称号が与えられているのは当然とも言えますね。

後鳥羽上皇の住まい 広い境内の「隠岐神社」

「隠岐神社」は、上のマップのように境内がとても広いんです。

なので、ゆっくりと歩みながら、後鳥羽上皇の生涯を振り返ってみたいと思います。

上皇になる前の後鳥羽天皇は、第八十二代の鎌倉時代の初代天皇。

つまり、その前の第八十一代天皇は、平安時代の終わり、壇ノ浦の戦いにおいて、入水して崩御したわずか8歳の安徳天皇です。

したがって、平氏から源氏の時代の変わり目に、天皇となったのが後鳥羽天皇。

神社に土俵があるのは隠岐の特徴ですか。その向こうの建物は予約制の日本料理店だそうです。

鎌倉時代というと「鎌倉殿の13人」を思い浮かべる方もいるかもしれません。

しかし、私はテレビは一切見ないので、どんなストーリーなのか知りません(^^)

後鳥羽上皇が登場しているのか、いないのかも。

緩い上り坂になっている参道をしばらく歩くと、島民から「ごとばさん」と呼ばれている「隠岐神社」が見えました。

後鳥羽上皇が詠んだ歌でしょうか。後鳥羽上皇は、のちの後鳥羽院。歌人としての称号です。

後鳥羽上皇の生涯は、政権が平氏から源氏に移った時から決まっていたのだろうか。

1221年、後鳥羽上皇が41歳の時、執権・北条義時を追討すべく「承久の乱」を勃発させます。

劣勢だった幕府側に転機が訪れたのが、北条政子の大演説。

これによって幕府側は盛り返し、約1か月後後鳥羽上皇は敗北。隠岐に流されます。

神社の創建は1939年。後鳥羽上皇の崩御700年に当たる年です。

出雲大社よりはひと回り小さいけど、貫禄のある注連縄。

4月14日と10月14日にはお祭りが催されるそうです。

今日は10月9日。5日後じゃないですか(^^)

続けて、境内の散歩。

後鳥羽上皇とともに流された順徳天皇は上皇の息子。こちらは佐渡に流されました。

後鳥羽上皇が18年間過ごした行在所跡

ここが、かつて源福寺という上皇が住まれていた場所。

春には桜が、秋には紅葉が境内を染めるそうです。

歌人としての上皇には、過ごしやすい環境だったのではないでしょうか。

行在所跡のわきにたたずむ小さな池。

後鳥羽天皇御火葬塚

1239年に崩御した上皇は、ここで火葬され、遺骨は京都に送られたそうである。

これは、なんの忠魂碑だろう?

宮内庁もしっかり管理されているようでした。

では、「隠岐神社」と「後鳥羽上皇」にさようなら。

海士町後鳥羽院資料館

「隠岐神社」の向かいに、「海士町後鳥羽院資料館」があったので寄ってみました。

「村上家資料館」との共通入場券で500円。

残念なことに、後鳥羽上皇ゆかりの刀剣などは撮影禁止。

鈍い光ではなく、鋭く光っていたのが印象的でした。

村上家資料館

後鳥羽上皇に仕えていたという村上家の資料館。

村上家というのは、隠岐において、もっとも有力な豪族であったとされ、上皇のお世話を19年にわたってしていたそうです。

内部は残念ながら撮影禁止。

ところが案内してくれた女子中学生(高校生?)が、透き通るような美人でした。

村上家は商人でもあったので、館内には、当時の商売道具や交易品が並んで、とても興味深く見学できます。

資料館の最奥には、畳敷きのお手洗いがあったのには驚きました。

さて、これで、島前・中ノ島、海士町の観光は終了。

レンタカーを返して、西ノ島に渡りましょう。

今回の島根&隠岐3泊4日ひとり旅の全行程はこちらです。