昨日から、隠岐諸島の神社をめぐってきましたが、名前もズバリ「隠岐神社」。
ようやく真打ち登場という感じです。
私が言うのもおこがましいのですが、隠岐の歴史観は、古事記に伝わる「神話」という面と、政治犯などが流される流刑の島という面を持っていると思います。
そして、隠岐に流された著名人の一人が後鳥羽上皇。
その後鳥羽上皇を祀っているのが「隠岐神社」です。
「隠岐」の称号が与えられているのは当然とも言えますね。
後鳥羽上皇の住まい 広い境内の「隠岐神社」
「隠岐神社」は、上のマップのように境内がとても広いんです。
なので、ゆっくりと歩みながら、後鳥羽上皇の生涯を振り返ってみたいと思います。
上皇になる前の後鳥羽天皇は、第八十二代の鎌倉時代の初代天皇。
つまり、その前の第八十一代天皇は、平安時代の終わり、壇ノ浦の戦いにおいて、入水して崩御したわずか8歳の安徳天皇です。
したがって、平氏から源氏の時代の変わり目に、天皇となったのが後鳥羽天皇。
神社に土俵があるのは隠岐の特徴ですか。その向こうの建物は予約制の日本料理店だそうです。
鎌倉時代というと「鎌倉殿の13人」を思い浮かべる方もいるかもしれません。
しかし、私はテレビは一切見ないので、どんなストーリーなのか知りません(^^)
後鳥羽上皇が登場しているのか、いないのかも。
緩い上り坂になっている参道をしばらく歩くと、島民から「ごとばさん」と呼ばれている「隠岐神社」が見えました。
後鳥羽上皇が詠んだ歌でしょうか。後鳥羽上皇は、のちの後鳥羽院。歌人としての称号です。
後鳥羽上皇の生涯は、政権が平氏から源氏に移った時から決まっていたのだろうか。
1221年、後鳥羽上皇が41歳の時、執権・北条義時を追討すべく「承久の乱」を勃発させます。
劣勢だった幕府側に転機が訪れたのが、北条政子の大演説。
これによって幕府側は盛り返し、約1か月後後鳥羽上皇は敗北。隠岐に流されます。
神社の創建は1939年。後鳥羽上皇の崩御700年に当たる年です。
出雲大社よりはひと回り小さいけど、貫禄のある注連縄。
4月14日と10月14日にはお祭りが催されるそうです。
今日は10月9日。5日後じゃないですか(^^)
続けて、境内の散歩。
後鳥羽上皇とともに流された順徳天皇は上皇の息子。こちらは佐渡に流されました。
後鳥羽上皇が18年間過ごした行在所跡
ここが、かつて源福寺という上皇が住まれていた場所。
春には桜が、秋には紅葉が境内を染めるそうです。
歌人としての上皇には、過ごしやすい環境だったのではないでしょうか。
行在所跡のわきにたたずむ小さな池。
後鳥羽天皇御火葬塚
1239年に崩御した上皇は、ここで火葬され、遺骨は京都に送られたそうである。
これは、なんの忠魂碑だろう?
宮内庁もしっかり管理されているようでした。
では、「隠岐神社」と「後鳥羽上皇」にさようなら。
海士町後鳥羽院資料館
「隠岐神社」の向かいに、「海士町後鳥羽院資料館」があったので寄ってみました。
「村上家資料館」との共通入場券で500円。
残念なことに、後鳥羽上皇ゆかりの刀剣などは撮影禁止。
鈍い光ではなく、鋭く光っていたのが印象的でした。
村上家資料館
後鳥羽上皇に仕えていたという村上家の資料館。
村上家というのは、隠岐において、もっとも有力な豪族であったとされ、上皇のお世話を19年にわたってしていたそうです。
内部は残念ながら撮影禁止。
ところが案内してくれた女子中学生(高校生?)が、透き通るような美人でした。
村上家は商人でもあったので、館内には、当時の商売道具や交易品が並んで、とても興味深く見学できます。
資料館の最奥には、畳敷きのお手洗いがあったのには驚きました。
さて、これで、島前・中ノ島、海士町の観光は終了。
レンタカーを返して、西ノ島に渡りましょう。