後鳥羽上皇が流されたことで知られる島前・中ノ島、海士町。
そのシンボルともいえるのは、後鳥羽上皇の行在所のある「隠岐神社」ですが、その前に、海士町をレンタカーで軽くひと回りしてみましょう。
というのも、この島にはレンタカーが7台、レンタサイクルが16台しかなく、借りようと電話を入れた時には午前中の3時間しか確保できなかったのです。
とはいえ、午後には、同じ島前の西ノ島には渡るつもりだったので結果は同じですが、要するに中ノ島・海士町の滞在時間は3時間。
正確には、西ノ島行きの船が出る12:55までの3時間10分です。
3時間あれば、「隠岐神社」の見学を含む島の一周は大丈夫だと思いますが、とにかくレンタカーを借りて出発しましょう。
レンタカーで走る島前・海士町
今年(2022年)の旅で、離島への上陸は9島目。
島旅に目覚めなかったら、隠岐諸島の中ノ島なんて来なかっただろうな。
こんな感じの県道を南へ。
急に道路が広がったりもします。
島前・中ノ島の人口は2,400人。
面積は約32㎢。国内43位。
広島県の因島よりやや小さく、小笠原諸島の父島よりも大きい。そんな感じです。
中ノ島に上陸しても、つきることのない「ゲゲゲの鬼太郎」の香り(^^)
でも、私は後鳥羽上皇の流刑地として、この中ノ島を見ています。
承久の乱に敗れて、この地に流された後鳥羽上皇。
昨年はそれから800年という記念式典があったようですが、すなわち今年は801年目です。
いま私が立っているのは、中ノ島の西海岸。目の前には西ノ島が広がります。
さて、私が向かっているのは「美穂神社」。後鳥羽上皇に由来のある神社です。
しかし、難読な地名が次々と現れ、グーグルマップに頼らないと運転できません。
おや、あれは円形競技場のように見える。
このあたりは、「島前カルデラ」と呼ばれ、大規模な火山噴火による中央部の陥没によってできあがった地形。
言われてみれば、海をおおい包む島々が外輪山のようにも見えます。
後鳥羽上皇が上陸&宿泊した「美穂神社」
ここが、後鳥羽上皇が上陸した崎港。
「われこそは 新島守よおきのうみよ あらきなみ風 こころして吹け」
のちに後鳥羽院となる歌人でもあった上皇は、日本海の荒波にこう詠んだそうです。
そして、港を見下ろす高台に鎮座するのが「美穂神社」。
夕刻に上陸した後鳥羽上皇は、この神社で一夜を明かしたそうです。
そんな由緒ある神社なのに、まったく飾りっ気もなければ人気もありません。
そもそも、この「美穂神社」。地球の歩き方には載っているのに、隠岐の観光協会が出版しているマップには載ってません。
後鳥羽上皇といえば「隠岐神社」。ここは、一泊しただけの場所、と言ってしまえばそれまでですが。
でも、こうしてみてると、風格のある社に見えてくるから不思議です。
注連縄もこのように立派。
神職の存在さえ感じなかった「美穂神社」にお別れ。
再び海士町のドライブ
再び海士町のドライブです。
ときおり姿を見せる集落。
「天川の水」という隠岐を代表する名水があるそうなので寄ってみましょう。
日本名水百選の一つにもなっている「天川の水」。
お地蔵さんが出迎えてくれました。
毎日400トンが湧き出ているという「天川の水」。
昨夜味わった「隠岐の誉」の水にも使われてるのでしょうか。
とても冷たく、清水という名がふさわしい湧き水でした。
延喜式神名帳のひとつ「宇受賀命神社」
さて、クルマを走らせ、「宇受賀命神社」にやってきました。
ちなみに、海士町に上陸してクルマを走らせ、かれこれ1時間以上はたっているのに、いちども対向車とすれ違いません。
と思っていたら、向こうから車がやってきました。島上陸以来はじめての交錯。
人口密度、約75人/㎢なので当然といえば当然。
それにしても、田園の中にどんとかまえた神社です。
ここは、後鳥羽上皇ゆかりというわけではありませんが、延喜式神名帳にも記載された「隠岐四大社」のひとつ。
「延喜式神名帳」とは、西暦927年にまとめられた日本最古の神社リストのこと。
そのうちに「隠岐四大社」に名を連ねる「宇受賀命神社」。
どっしりとしたたたずまいに貫録を感じます。
島後の「水若酢神社」と「伊勢命神社」には立ち寄ってきました。
あと、西ノ島の「由良比女神社」を制覇すれば、「隠岐四大社」踏破です。
祀られている宇受賀命(ウヅカノミコト)は、この地の守護神。
西ノ島の「比奈麻治比賣命(ヒナマチヒメノミコト)」をめぐって、宇受賀命と大山神社の神さまが闘い、勝利したことにより姫と結ばれたと伝えられています。
そんな力強さを感じる注連縄。
遺跡のような石垣も力強い。
古来より海上の安全を守ってきたのも、大山神社の神に勝利した証でしょう。
田園の中に鎮座する不思議な「宇受賀命神社」でした。