物音一つしなかった「橘寺」を後にし、「石舞台古墳」へ向かいます。
「橘寺」が聖徳太子生誕の地なら、「石舞台古墳」は蘇我馬子のお墓(とされている)。
まさに、日出るころの日本の飛鳥時代そのものを旅している感覚。いや観念だけかもしれませんが(^^)
「橘寺」から「石舞台古墳」へ
「橘寺」から「石舞台古墳」までは2㎞弱。しかし、途中から登り坂になります。
自転車をこぐスピードが少し落ちます。
静寂そのものだった「橘寺」にくらべ、「石舞台古墳」は観光バスやクルマが集まり、観光スポットらしいにぎやかさです。
今の季節は秋。
しかし、このチケットを見る限り、シーズンは春らしい。
この「石舞台古墳」は、とにかく大きな石が使われていることで有名。
どんなふうに石をしつらえたのか、解説がなされてました。
総重量2300tの巨石「石舞台古墳」
では、どのくらいデカいのか、近寄ってみましょう。
たしかにこれは巨大だ。
2300tあると聞いてますが、単純にクルマ2300台ぶんです。と、聞くと、そんなにあるかなという気もするけど、とにかく大きい。
天井の二つの石は、それぞれ64tと77tとのこと。
6世紀の築造。巨石30個を積み上げて、6世紀に造られた石室古墳です。
反対側に回ってみます。
どちらが正面なのかな、と考えましたが、石室の入り口があるほうだから、これは側面と呼ぶべきなんでしょうね。
蘇我氏の血縁者がいまでもお花を供えているのでしょうか。
枯れてない、きれいな花がきちんと飾られています。
石室に入ってみる
では、石室に入ってみましょう。
この瞬間は、エジプト・ルクソールでツタンカーメンのお墓に入ったときや、新疆ウイグル・トルファンでアスターナ古墳に入ったときと同じ感触。
お墓に入る瞬間の、冷たい空気に包まれる手ごたえがなんともいえないw
内部には、なにも描かれていません。
これで、よく蘇我馬子のお墓と推測できたなと思いますが、これだけの土木工事です。
当時の社会で、それができる権力を持っていたのは蘇我馬子しかいなかったということなのかもしれない。
なにかのおまじない?
眺めているうち、蘇我馬子がこれほどの権力を振り回していたら、聖徳太子は斑鳩のほうへ行ったほうが暮らしやすかったのかもな・・そんな気もしてきました。
当時は、このあたりまですべて古墳だったのでしょう。
それが、盛り土がはがされて、骨格ともいえる石室だけ残りました。
蘇我馬子の権力とともに、蘇我氏への恨みつらみも大きかった証でしょうか。
飛鳥時代の権力闘争を垣間見る思いの「石舞台古墳」でした。