歴史に興味のある方で、「奈良県・吉野」と聞いたら、どの時代を思い浮かべるだろうか。
古代史が好きな方なら、「壬申の乱」の引き金となる大海人皇子にぬれ衣を着せようとした「日本書紀」の描写が目に浮かぶことでしょう。
これから向かう「吉水神社」は、「壬申の乱」から660年あまり隔てた鎌倉幕府滅亡の折、足利尊氏に敗れた後醍醐天皇が「南朝」を開いた地。
日本史上唯一、二つの朝廷が同時に存在した「南北朝時代」。
その「南朝」の後醍醐天皇の皇居が「吉水神社」である。
「吉水神社」の境内から望む「一目千本」
金峯山寺・蔵王堂をあとにした私は、街道をさらに北に歩き「吉水神社」に向かいます。
そして「東南院」を右手に過ぎると、
「吉水神社」の看板が目に入りました。
さて、かつての「南朝」の皇居であったということで、勝手にわくわくしてますが、その前に「吉水神社」には、素晴らしい「サクラ」の演出があります。
ご覧ください。この山肌一面を「サクラ」が彩る景勝を。
「下千本」でも、十分にすごいと思いましたが、「中千本」と「上千本」が同時におさまるこの場所。
シロヤマザクラを中心に3万本の桜が咲いています。
本日は、このさらに奥、「奥千本」まで行くつもりですが、果てしなく感じる距離に武者震い。
それにしても、「中千本」や「上千本」の見ごろは4月中旬頃と聞いていたのですが、3月30日の今日、このような眼福を体験できて運がいい。
1594年(文禄3年)豊臣秀吉も、武将5千人を引き連れて、花見の宴を催したとのこと。
2度目の朝鮮出兵(慶長の役)の景気づけの意味もあったのでしょうか。
その4年後、1598年秀吉は、病で亡くなっています。
日本最古の書院建築「吉水神社」
では、「一目千本」観賞の後、世界遺産でもあり重要文化財でもある「吉水神社」を拝観しましょう。
ここ「吉水神社」は、後醍醐天皇の皇居であったと同時に、源頼朝に追われて吉野山に逃げ込んだ源義経が隠れ住んだ場所でもあり、豊臣秀吉が花見の宴の本陣として、数日間滞在した場所でもあります。
歴史マニアなら、よだれが出そうな由緒ある寺院ですが、内部は撮影可とのこと。
1300年前の創建とされているようですが、こんな模型があるということは、やっぱり復元してるのかな。
源義経 静御前 潜居の間
1185年(文治元年)、壇ノ浦の戦いのあと、源義経は源頼朝に追われ、静御前や弁慶らとともに吉野に逃げ込み、義経が5日間ほど隠れ住んだ場所だという。
右側の一角は「弁慶思案の間」。
見張りをしながら、戦略を練っていたそうです。
静御前着用の着物だそうですが、ほんとに当時のもの?? すごいです。
すごいところですね。吉水神社。
後醍醐天皇玉座
「南朝」の歴史が始まった後醍醐天皇玉座。
126代も続いている、わが国日本の朝廷。
その中でも、私は個人的に後醍醐天皇には、惹かれるものがある。
と、思ったら、後醍醐天皇は、歴代の朝廷人気ランキングで、常に上位入り。
考えることは同じですねw
武士に嫌われながらも、良くも悪くも行動力は抜群で、隠岐の島に流されるも立ち上がり、日本史に名を残す「南北朝時代」の一角を担っているのだから、「不屈の帝王」と呼ばれるのも納得がいきます。
病で最期となったのもこの地。
「花にねて よしや吉野の吉水の 枕のもとに 石走る音」
という最期の詩も、この部屋で詠んだのでしょうか。
建物の背後は、吉野の山の崖が迫ります。まさに背水の陣。
さらに、書院内をすすむと、展示室へ。
弁慶の槍です。
源義経の鎧。ほんとに本物ですか・・すごい。
金峯山寺・蔵王堂を臨む庭園
展示室を出ると、庭園が広がります。
さきほど見学した金峯山寺・蔵王堂を眺められます。
書院の最後は、豊臣秀吉ですね。
豊臣秀吉愛用の金屏風。
こんなものを持たされて、吉野の山を登らされた家臣たちは大変だったでしょう(^_^)
庭園に下ります。
吉水神社の北闕門(ほくけつもん)。
吉野山に入山する修験者は、ここで邪気を払っていました。
後醍醐天皇も、朝夕必ず北闕門の前に立ち、京都の空に向かって九字を切っていたそうです。
豊臣秀吉自ら設計した桃山庭園「吉水院庭園」。
さて、境内を出ましょう。
古代から中世にかけての歴史の舞台。「吉水神社」でした。