「蕎麦切り よしむら」で、美味しい「かきあげそば」をいただいた私は、唐招提寺へ。
「歴史の道」を北へ歩くと、すぐに唐招提寺の敷地にぶつかりました。
それにしても、雨が降っているとはいえ、おそろしいほどに静けさに包まれた世界遺産です。
鑑真和上と唐招提寺
鑑真和上は、唐の時代の中国・揚州に生まれ、仏教の授戒を行う高僧でした。
742年、遣唐使として唐へ渡っていた日本人留学僧から、日本の乱れた仏教の様子を聞き、みずから渡日を決意。
しかし、唐の皇帝から出国の許可がおりず、やむなく密航するも、困難な航海は鑑真の行く手を阻みます。
遠く海南島まで流されながらも、6度目の航海でようやく日本にたどり着いたときは、鑑真は目が見えなくなっていました。
この、鑑真のエピソードだけでも感動する話です。
ちょうど同じ頃、日本からは阿倍仲麻呂が遣唐使として唐に渡った折、唐の玄宗皇帝に認められて、長安の都(今の西安)で高官にまでなっています。
1300年も前なのに、すさまじくエキゾチックです。
そして、この己の身を賭けてまで渡日した鑑真が、修行を行う場として開いたのが「唐招提寺」です。
鑑真は、亡くなるまでの5年間、この唐招提寺で過ごしました。
南大門からエンタシスの国宝「金堂」へ
立派な南大門。風格があるので、さぞかし建立からたっているのかと思えば、1960年の再建でした。
そして、金堂が目に入ります。
現存の金堂は、鑑真が亡くなった後、弟子の如宝により建てられたもの。
しかし、奈良時代の建造物として現存する金堂は、これが唯一のものであるらしい。
1300年も前の建造物か・・と感嘆しながら眺める天平様式の柱。
この8本の柱は、ギリシア神殿建築技法が採用された、いわゆる「エンタシス」です。
法隆寺だけかと思っていたら、どっこい唐招提寺にも採り入れられていたんですね。
たしかに、見つめれば見つめるほど、上部に向かって細くなっていく気が・・
内部は撮影禁止ですが、金堂には、「廬舎那仏坐像」など巨大な仏像が並び、威光を放っています。
講堂・鼓楼・開山堂
そして、金堂の北側にあるのが講堂。
鑑真が創建するのあたり、平城宮朝堂院東朝集殿を朝廷より払い下げられ、移築改修されたもの。
平城宮唯一の宮殿建築の遺構です。
金堂と講堂の間に、こじんまりと立つのが鼓楼。
鑑真が将来した三千粒の仏舎利を安置しています。現存のものは、鎌倉時代の1240年(仁治元年)の再建。
さて、講堂の裏手にも回ってみましょう。
雨とはいえ、本日は日曜日。
世界遺産とは思えないほど、拝観者がいません・・
境内の北側にある開山堂。
江戸時代に徳川家歴代の御霊殿として建立。
1881年(明治14年)に鑑真の尊像を安置するため、現在の位置へ移築されました。
鑑真和上の坐像が安置されている御影堂は、残念ながら改修工事中。
雨にうたれ静かに鎮座する鑑真和上御廟
最後は、鑑真和上御廟です。
これは、唐招提寺の敷地のもっとも北東のはずれに、遠慮するように鎮座しています。
現れました。鑑真和上のお墓です。
日本に仏教を広めた鑑真和上。
密航してまで渡日した鑑真に、その真意を聞いてみたい・・
渡日にようやく成功した6回目の航海でも、出航直前に役人の目にとまり船から降ろされますが、大伴古麻呂の機転で乗船に成功。
同じ頃、唐の役人を40年近くも勤めた阿倍仲麻呂も、帰国を志しますが、暴風雨にあい、ベトナムまで流され、一生日本には帰れませんでした。
私が旅人なので、そう感じるのかもしれませんが、すごいドラマだな。
ところで、鑑真和上御廟の敷地には、みごとな苔が地面をおおっています。
雨を吸いこんで、いきいきして見えます。
時が止まったかのように静かな鑑真和上御廟でした。
貸し切り同然だった「唐招提寺」。
さて、次は、どこへ行こうかな・・
もう16時近く、お寺の閉館が近づいています。
今夜の宿泊地、京都に戻るしかなさそうですが、奈良公園によってみますか。