なんだかはじめて壱岐に来て、豊臣秀吉の朝鮮出兵であったり、元寇の古戦場など、戦火の史跡ばかりめぐっているように思えますが、私はけっして戦争マニアなわけではありません。
国境の町に来れば、隣国との闘争が絶えないのが世の常であるし、そうした先人の粉骨砕身がよみとれる遺構には手を合わせたい。
実際、そうした辺境の地の苦労は、私が言うのも畏れ多いですが、語り継がねばならないことだと感じています。
文永の役の千人塚の前で合掌した私は、芦辺の町に向かってクルマを走らせ、弘安の役の古戦場に向かいます。
少弐公園となっている瀬戸浦古戦場跡
元寇は、ご存じのとおり、文永の役と弘安の役の二度に渡って、来襲しました。
その弘安の役の際、戦場となった場所のひとつが、ここ瀬戸浦です。
しかし、現在では「少弐公園」と名付けられ、美しい海を見下ろすキャンプ場になっているようでした。
19歳で元軍に立ち向かった「少弐資時」
文永の役で日本を攻め落とせなかった蒙古は、再び来襲します。
この弘安の役は、対馬・壱岐を経由する東路軍(総勢4万2千)と、慶元(現在の中国の寧波)を起点とする江南軍(総勢10万)に分かれた、当時としては世界史上最大の艦隊だったそうです。
元軍の東路軍に立ち向かったのは、弱冠19歳の少弐資時(しょうに すけとき)。
4万の兵にはとても太刀打ちできず、無念の最期をとげました。
多数の島民も犠牲になりました。壱岐には、犠牲者を祀る千人塚が多数あります。
少弐資時を祀る壱岐神社
少弐公園から東側を見渡すと、真っ白い鳥居が見えます。
少弐資時および、弘安の役のときの天皇・亀山天皇が祀られています。
境内まで下りていきたかったのですが、通り道が見つからず、断念しました。
展望台に残る古戦場を思わせる数々の遺跡
少弐資時のお墓から、海に向かって遊歩道が伸びているので、歩いてみました。
歩いていくと、明らかに戦時の遺構と思われる史跡が現れました。
のろし台です。
しかし、これは元寇のときではなく、663年白村江の戦いの際に、国防のため設けられたもの。
対馬や壱岐は、古代からずっと日本国本土の先兵であり続けてくれたことの証です。
碇石も飾られています。
こちらの由来は元寇のようですが、海中から発見されたようで、中国製の石を使ってはいるが、日本の船に使用されたものだろうと分析されてました。
展望台からは、青黒く広がる玄界灘。
その先には鳥居も見えます。
元寇の古戦場である壱岐は、イザナキとイザナミによって生まれた日本創始の島であることも思い出させてくれます。
ちなみに、実は立っていられないほどの強風が吹きずさんでいます。
この強い風が、壱岐の人たちの強靭な精神を育んだのでしょうか。
東アジアで唯一、ユーラシアの大国元を追い返した日本国として、対馬や壱岐の人たちをもっと讃えてもいいでしょう。
壱岐の旅ももう終わりです。
あとは、海岸に沿って南下し、印通寺に戻るとしましょう。