歴史と対話するような厳原の町歩き。
いよいよ宗氏一族のお墓が備えられている、「万松院(萬松院)」を訪ねます。
国境の島、対馬の歴史は大陸との関係をもって築かれてきたわけですが、もっとも激動の時代といえば、どの時代を指すべきだろうか。
人によって考え方が異なるだろうし、私自身も一言で律せるほどエラそうなことは言えませんが、外の世界に対し、押して引いての見事な戦術をみせた宗氏の時代を挙げたい。
上の画像は、武家屋敷通りで見かけた宗義智の像である。
ここに、宗氏の残した略歴を記してみる。
- 宗重尚(そうしげひさ):鎌倉時代の武将で、当時、逆賊であった対馬の阿比留(あびる)を討ち、大宰府より地頭代に任命される。宗氏の時代のはじまり。
- 宗助国(そうすけくに):宗氏二代。13世紀の元寇襲来の際、国境を防衛するも討ち死にする。
- 宗盛国(そうもりくに):宗氏四代。室町幕府から対馬の支配を承認される。
- 宗義智(そうよしとし):宗氏十九代。文禄・慶長の役で、先陣となって釜山城・漢城・平壌城を攻略。その後、講和し朝鮮との国交回復に尽力。
この宗氏の代々のお墓が備えられているのが「万松院」である。
「万松院」創建当時のままの山門
さて「万松院」は、対馬市役所と金石城跡の間の通りを山の方角に歩くと、すぐに見えてきます。
こちらは、金石城跡。
対馬藩主第二代の宗義成が、父である義智の冥福を祈って建立した、安土桃山式の貴重な史跡です。
義智が亡くなったのが1,615年。その同年に建てているので、親子の愛情がうかがえます。朱色の門壁にも哀愁を感じます。
山門からは、北に向かって石段が伸びてます。
あの上にお墓があります。行ってみましょう。
山門から、そのまま石段を登ることはできず、本殿への入り口から遠回りします。
300円の入館料を払って本殿へ。
チケットの代わりにいただいた「御墓所案内」には、在墓藩主略年表と御墓の一図が掲載されています。
132段の石段 百雁木(ひゃくがんぎ)を登る
では、本殿は後回しにして、先にお墓にまいりましょう。
登るは、百雁木(ひゃくがんぎ)と呼ばれる132段の石段。
お墓の上のほうから風が吹き、竹林がサラサラという音を立てます。
この先に、多数の宗家のお墓が祀られています。
132段の石段が、威圧感を運んでくるようです。
万松院では、例年10月にまつりがあり、その際は石段の両脇の石灯篭に火が灯されます。
灯篭は350基あるようで、拝観者は提灯をもって拝観するそうです。
132段の石段の中腹に、まさに一休みでもすすめるように中御霊屋(なかおたまや)という踊り場があります。
中御霊屋で一休み。
中腹まででもけっこうな運動。
さわやかな風が汗を乾かしてくれますが、サラサラという木の葉の音が不気味。
中御霊屋から、すでにお墓で囲まれています。
苔の生えた石段に、ヘビのように生い茂る樹木。まるで、アジアのどこかの遺跡でもみているよう。
日本3大墓地のひとつ「万松院」の墓石群
さて、「万松院」の最上部へ登ってきました。
最上部を「上御霊屋」と呼ぶようですが、東と西に分かれていて、宗義智などの墓は東側。
西側には、幕末以降の当主の墓がおさめられています。
さっそく目に入った宗義智の墓。陵といってもよさそうな石組み。
宗氏代々において、やはりもっとも波乱万丈であったのは、宗義智であろうと思う。
朝鮮との交易で生計をたてる対馬において、おかみの命とはいえ朝鮮に出兵し、その後の朝鮮との国交回復に人生をささげている。
サラリーマン社会でも、現場と幹部の間に隔たりがあり、その間をとりなす中間管理職は、板挟みの中で最善の努力をする。
スケールが突然小さくなって恐縮だが、義智の立場が何万分の一かは理解できる。
しかし、対馬は大陸までわずか50キロ。九州本土より近いのである。
先祖代々から、元寇襲来などの事変は聞かされていただろうから、隣国との関係悪化の恐怖は推して知るべきだ。
おりしも雨が降り出し、ほかに人もなく、このような幽玄な雰囲気を、久しぶりに味わいます。
こちらは、義智の子 義成。
万松院を建立しただけでなく、朝鮮通信使を5度にわたって招聘している。
子は父の背中を見て生きるというのは本当のようです。
広い境内に、無数の墓石が並ぶ荘厳な光景。
「万松院」は、日本三大墓地のひとつ。
あとの二つは、金沢の前田藩墓地と萩の毛利藩墓地。
主力大名と肩を並べる、誇り高い宗氏の墓地である。
石垣は、創建当時からそのままなのだろうか。
墓地には、とてつもなく背の高い杉が立っています。
これは、対馬でもっとも長寿とされる樹齢1,200年の万松院の大スギ。
この3本の杉は、1,200年もの間、国境の島としての対馬の躍動を、常に見守ってきました。
本日は日曜日。宿もとれなかったのに、まったく人と出くわさなかったのは何故だろう?
霊魂が漂うような、宗氏の墓地をあとにします。
朝鮮国王から贈られた万松院の三具足
最後に、万松院の本堂をたずねます。何度か火災に見舞われ、現在の本堂は1879年に再建されたもの。
それよりも、驚くのがこの「三具足」。
対馬は古代から、朝鮮との交易によって成り立ってきた島。
その証が、この「三具足(みつぐそく)」にあります。
「三具足」とは、仏教において、香炉、花瓶、燭台を指します。
そして、ここにある「三具足」は、なんと、朝鮮国王から対馬に贈られたもの。
いつの時代に贈られたものか定かではないが、対馬藩主が亡くなったときに弔礼品として贈られたとすると、やはり宗氏代のもの。
この「三具足」は、まぎれもなく、お互いを傷つけあいながらも友好関係を見出そうとしていた証。
文化庁は、2015年4月に対馬と壱岐を日本遺産第一号として認定していますが、このような事実を文在寅大統領は知っているのだろうか(もうすぐいなくなるけど)
考えてみれば、慰安婦問題の日韓合意は2015年12月。そして2017年に文在寅が大統領に就任している。
これが逆だったら、対馬は日本遺産第一号とはならなかったのかもしれない。
そんな歴史のいざこざなど関係ないといった風情で、鶴と亀が、なんともいとおしい姿を見せてくれます。
くちばしで、しっかりと燭台を支える姿には凛々しさすらも感じます。
日韓両国は、これからどんな歴史を歩んでいくのか、誰もいない万松院で「三具足」を目にし、哲学的な感傷につつまれました。