では、ホテルに荷物を置いて、カメラと傘をもって、厳原の町を歩きます。
これが、今夜泊まる予定の「ホテル金石館」。
金石とは、室町時代の豪族・宗氏(そううじ)が築いた金石城から来ているのでしょう。
対馬は、古代から飛鳥時代、鎌倉時代、室町時代と、時代を越えて、常に朝鮮半島や大陸との中継地点でありました。
どこまで、その匂いをかぎとれるかわかりませんが、想像力を働かせながら、厳原の町を歩きはじめます。
「鳥居」「石垣」「坂道」に囲まれた厳原の町
厳原は港町。中心部には厳原本川が流れます。
しかし、川沿いから少し離れると、すぐに趣がかわります。石垣に鳥居。
石垣は、細い路地にまで入り込んでます。
いつごろ設えられた石垣であるのか。
こんな隙間にも登場するところを見ると、室町時代、それこそ宗氏の時代の遺跡と思いたいけど、どうだろう。
あとで調べてみると、これらは天保年間において、火災の延焼防止のために築かれた石垣。
厳原の旧市街にところどころ残っているとのこと。
国道382号線から続く県道24号線をまたいで、内陸へ。
どのあたりが、厳原の旧市街なのかわかりませんが、このような石垣がはりめぐらされた町も珍しいでしょう。
見事な石垣に囲まれながら、厳原の散歩。
観光客がいるのかいないのか。対馬に来てから、観光客を一人も見かけません。
観光客は観光バスで回るのかな。
私は、こんな路地を一人でテクテク歩くほうが好きです。
石垣も多いけど、坂も多い。
対馬は海嶺が浮き上がったような島。だから、港から離れると、基本的に坂道だらけです。
宿坊西山寺。文字通り、宿を兼ねてます。
江戸時代の朝鮮通信使一行が宿泊した施設でもあります。
今回の旅でも、実はこの宿坊へ泊るつもりでした。
しかし、予約できた宿泊施設がさっきの「金石館」だけ。
だから、けっこう混んでることを覚悟してきたのだけれど、拍子抜けです。
大小入り乱れた石を、たくみに組み合わせて、芸術的なカーブをつくる。
本当にアートな石垣群です。
鳥居も随所に。
鳥居の両サイドが上にそりあがっている明神系の鳥居。
大陸文化の影響を受けている証です。
朝鮮通信使の中継地点だった厳原
日本の文化に多大なる影響を与えた大陸や朝鮮半島の文化。
それこそ紀元前の稲作から、近代の朝鮮通信使に至るまで、交流が途絶えたことはありませんでした。
とくに、鎖国状態であった江戸時代にあって、朝鮮はアジア唯一交流が許された国。
朝鮮通信使は、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄&慶長の役)のため、国交が断絶した日本と朝鮮の関係を修復するべく、対馬藩第19代島主である宗義智の外交努力により、朝鮮が組成した外交使節団です。
そして1607年に、はじめての朝鮮通信使が来日して国交が回復します。
以来、江戸時代の260年余りのあいだに計12回の朝鮮通信使が日本を訪れ、その文化的交流は両国の発展に寄与しています。
案内板には、朝鮮通信使は平和の象徴と記されてました。
日本と朝鮮半島の関係は、本当に複雑。
近年においては、ほんと首を突っ込むと、とんでもない論争に巻き込まれかねないほどにデリケート。
しかしながら、対馬の厳原。
古代から、大陸への先兵となっていた土地であり、そこでは、本国では想像もつかない外交の努力があり、そして、現代でも、経済の基盤の一部となっている事実は忘れてはならないでしょう。
コロナ禍以前から、日韓関係の悪化から、対馬を訪れる韓国人観光客は大幅に落ち込んだと聞きます。
厳原本川の河岸に彫られた朝鮮通信使の肖像画から、江戸時代の賑わいを想像させます。
参勤交代を彷彿させますね。
繁華街・厳原本川に沿って散歩
坂道ばかり歩くのも疲れるので、厳原本川まで下りてきました。
この川沿いは、いわば対馬の首都である厳原の繁華街。
でも、いまは日曜日の昼下がり。町はひっそりとしています。
夜になると賑わうのでしょうか。
架けられた橋には、一つ一つ名前がついています。
対馬に来て、はじめてコンビニを見かけました。
川沿いより、一本奥に入ったほうが、繁華街のにおいがします。
ひでよしですか(^^)
対馬藩十万石を偲ぶ武家屋敷通り
では、厳原本川から、少し北、すなわち比田勝方面に歩き、武家屋敷通りというものをみてみましょう。
ここはまだ、武家屋敷通りに入ってませんが、あちこちに目に入る見事な石垣。
宗義智の像
武家屋敷通りに入るとすぐ、宗義智の像がたってました。
宗義智は、私のよくプレイする「太閤立志伝Ⅴ」にも登場する?、対馬の大名。
宗家代々のお墓が、万松院という菩提寺にあります。あとで寄ってみるつもりです。
1568年に生まれて1615年に死没するとは、対馬の激動の時代を統治した英雄といってもいいでしょう。
像からも、決意を持った鋭い目つきを感じます。
さて、武家屋敷通りを進んでいくと、両側に石垣が迫ります。
このあたりは中村地区といって、平安時代に町の姿が形成され、その後1660年代にいまの姿に至ったと案内板にあります。
もちろん再建されたものでしょうが、年輪を残す石垣から、城下町として栄えていて時代を想像します。
日本の城下町の散策経験に乏しくてわかりませんが、この異国を歩いている感じはなんだろう?
積み上げられた石の隙間から、顔をだすサボテン。
この石垣は、防火壁と聞いていますが、はるばる海を渡ってきた朝鮮通信使へ威厳を誇るためともいわれています。
たしかに威厳のある風景。
国境の島、対馬。
かるく歩いてみただけでも、この国境の島が、常に先陣となってくれたおかげで、今の日本がある。
町の風景から、そんな静かなプライドを感じます。
では、続いて、この武家屋敷通りからすぐのところにある「八幡宮神社」を訪れてみます。