さて「菜食主義ビビンバ」でお腹いっぱいとなった私は、腹ごなしに公州の旧市街を南へ歩きます。
目指すは「公州 武寧王陵と王陵園」。
古都百済の遺跡があり、世界遺産登録もされ、公州を歩くにはかかせないスポットです。
百済時代の古墳「武寧王陵と王陵園」
さて、豪快に飛ばすクルマに恐れおののきながら、街道を南に歩き博物館へ。
錦江から約30分歩いてたどり着いた「武寧王陵と王陵園」。
要するにここは、今から1400年ほど前、朝鮮三国時代のひとつでもあった百済の時代に、王族たちのために作られた古墳です。
百済なのか伽耶なのか、私にはわからないけど、こんな古代から東南アジアと交易を行っていたということなのでしょうか。
当時の日本はヤマト政権。
近畿なのか九州なのか、どっちともとれるように配慮いただいてますね。
なるほど、百済は独自に中国やインドと繋がっていたんですね。
そのルートで仏教も日本に渡ってきたと。
では、実際に古墳を見に行きましょう。
チケットは3,000ウオンでした。
うわ、これは、日本の飛鳥地方を歩いているかの如く錯覚する地形。
古墳の入り口が、そのまま博物館になってました。
古墳の中にも入れるみたいです。
そして写真も撮っていいみたい。
古墳だからお墓です。そう考えると、この冷んやりした空気が、少々不気味に思えるw
さて、ミュージアムの中は、発掘された当時の遺跡が多数出展されてました。
どれもこれも、先進国、当時の中国(南北朝時代)から伝わったものですね。
日本の博物館でも見かける遺品に、やっぱり親近感を覚えます。
では、駆け足ですが、日が暮れる前に、もう一つの世界遺産「公山城」に出向きますか。
武寧王陵から公山城へ
武寧王陵から公山城へ徒歩で戻る途中、風変わりなバスに出会いましたが、これが「地球の歩き方」に出ていた「コマ列車」ですね。
世界遺産と世界遺産を結ぶ通りなのに、誰も歩いてなくて不思議だな、と感じてたけど、なんとなくなっとく。料金は3,000ウオンだそうです。
そして水道橋のようなアーチをくぐります。
そこに鎮座していたのは、武寧王。
この第25代の百済の王に謁見したヤマト政権の要人はいただろうか。
お、さすが栗料理の本場。
でも、私はさきほどの「菜食主義ビビンバ」でお腹いっぱいなので。
そして、見上げれば公山城を取り囲む城壁が。
チケットを買います。
また3,000ウオンでした。
公山城は、百済中期の都に築かれた城郭で、都がソウルから移された際の遺構です。
城郭の長さは2,660mで、今朝歩いた水原華城の約半分。
それでも、全部回ると、アップダウンもあるので1時間かかるみたいです。
どのコースをとるかは決めてないけど、夕闇も迫ってるので、歩き出しましょう。
現在16時半。この時間からでも入場者がいるさすが世界遺産。
ここに百済の都が置かれたのは西暦475年~538年。
この年号に日本史を重ねてみると、ちょうど仏教がはじまったあたり。
つまり、当時の欽明天皇に百済の使者が仏教の経典や仏具を献上し、仏教が伝来したわけです。
西暦552年という、1,400年以上も前の魅力あるストーリー。
そして、その約100年後ですよ。
日本最初の世界大戦「白村江の戦い」が勃発するのは。
戦争を正当化しているわけではありません。ストーリーとして語っているだけ。
欽明天皇は、百済を追い込んでいる新羅に対して討伐軍を送ったという記述もあります。
その約300年前には、神功皇后が新羅征伐に出向いている。
そして、その後にいわゆる「日本史の空白150年」が続くとなると、なんともドラマチックですね。
まさに古代の沈黙だと思う。
ちなみに、目の前を流れる錦江は、長さが397km。信濃川は367kmである。
大陸は、何から何まで日本の先輩だ。
ちょっと眺めてたけど、なんとなく不思議な感じがする。
なんだろうと思ったのは、韓国も日本と同じく出生率の超低下国。
なのに、なぜ、こんなに家族連れが多いんだろう・・・
日本も同じ。
でも、観光地を歩いている人がみなひとり旅の人間だったら、それはそれでおかしいか^ ^
錦江の北には公州の街並みが広がります。今夜のホテルもそこにあります。
しかし、だいぶ歩いて疲れてきた。
無理も無い。昨夜の深夜便で仁川に着いて、仮眠をとった後、ずっと歩き続けてるんだから。
iphoneのヘルスケアでは3万歩歩いたことになってる。
では、少し早いけど幕営としますか。橋を渡ってホテルに戻りましょう。