5月の週末を使った萩一人旅も終盤。
世界遺産構成資産に登録される萩城城下町のなかでも、とくに幕末の香りが色濃い下町エリアを散策して終わろうと思います。
浜崎地区から歩いてきた私は、まず菊屋家住宅をのぞいてみることにしました。
400年の歴史 萩の豪商「菊屋家」住宅
なんと、うまい具合に庭園の特別公開中でした。
それにしても「菊屋家住宅」。なんとも歴史を感じる造りです。
ところで、菊屋家は、毛利藩の御用商人として藩を支えてきた豪商です。
いわば長州の経済を担っていた第一人者。
伊藤博文のイギリス密航の際も、高杉晋作の上海留学のときも、経済援助をしたことでしょう。
下関戦争の戦費も出したのかな??
さて、豪商「菊屋家」の住宅は、こんな感じになっています。
出典:菊屋家公式HPより
ここが御成門で、正式な玄関。要人を迎える際に使われていたそうですが、
私はそのまま主屋にワープです。
無料のガイドさんがいたようですが、先客についていってしまいました。
でも、豪商の家の中をのぞくのは、なんともこそばゆい(^^)
しろうとの私でもわかるような、骨とう品が勢ぞろいです。
書院から眺める中庭の様子。
これは見事です。京都のお寺にいる気分。
しかし、拝観者はさっきの先客のみ。
豪商を借り切った気持ちで徘徊します。
ふたたび主屋へ。
醤油の販売も取り仕切っていたのでしょう。
豪商というと庶民の敵のようなイメージもありますが、庶民にできない苦労をこなせるから豪商になり得るんです。それは現代でも同じですね。
これは、1871年から73年にかけて、岩倉使節団に同行した伊藤博文がイギリスで購入してきた柱時計。なんと、まだ動いています。
これは電話ですね。それにしても、100年ちょっとでものすごい技術の進歩。
あの頃の人たちが、スマートフォンなど見たらたまげるだろう。
あれは量りだろうか。
順路に沿って進みます。
本蔵は撮影禁止でした(^^)
菊屋家住宅 特別公開の庭園
菊屋家住宅では、庭園を新緑の季節と紅葉の時期にあわせて特別公開されます。
この庭園は、約500坪の面積の枯山水様式の回遊式庭園。
あの座敷から見たら、紅葉の時期など、どんなふうに映るのかな。
誰もいないので、庭園も独り占めした気分。
さて、これで拝観のコースは一巡。
菊屋家の400年の歴史のうち、もっとも激動だったのは、やっぱり19世紀後半かな。
でも、黒船だ、攘夷だ、維新だ、戦争だ、なんて時代からまだ200年もたってない。
人類の持つ力はすごい、あらためて感じました。
日本の道百選のひとつ「菊屋横町」
菊屋家住宅の出口は、「菊屋横町」という通りに通じています。
この道が、日本の道百選にも選ばれている「菊屋横町」。
クルマは通れそうですが、駐車はできない。
なので、景観を崩さない雰囲気のいい道です。
田中義一の誕生地。
堀内地区の入り口に銅像もあった第26代内閣総理大臣をつとめた人。
豪商といい内閣総理大臣誕生地といい、萩の歴史観はもっと世界に届いてもいいでしょう。
世界遺産登録はされていますが。
この先には、高杉晋作の誕生地もあります。
高杉晋作誕生地
「菊屋横町」沿いに門を構える、高杉晋作の誕生地。
ネット上の非公式調査ですが、幕末の志士で人気ランキング上位、いや1位にも名がのぼる高杉晋作。
その晋作の誕生地に足を踏み入れます。
おお、「日本を動かした男」ですか。感動しますね。
29歳という若さで、病死した高杉晋作。
その生涯は波乱に満ちたものでした。
高杉晋作を人気ランキング上位に押し上げている要素はどこだろう?
ひとつには、下関戦争の講和の際、彦島の租借を求める連合軍に対し、古事記を朗読し「日本は神の土地だから絶対に渡せない」と、必死の形相で追い返したシーンが挙げられるでしょう。
さらには、幕府の長州征伐の際、たった一人で幕府と戦うことを有言実行したシーン。
保守派に揺れる藩論を、命を懸けた「功山寺決起」で統一を図ったのは、高杉晋作の最大の功績と言ってもいいと思います。
産湯に使われたとされる井戸。
いまからたった160年ほど前。激動に揺れていたであろう萩の地を歩き、歴史観に臨場感がともないます。
高杉晋作の誕生地の隣にあった萩焼のお土産屋さん。
菊屋横町ももうすぐ終点です。
晋作広場に立つ高杉晋作立志像
こちらが菊屋横町と伊勢屋横町に挟まれた晋作広場。
この一角に、松下村塾に通っていた頃の在りし日の高杉晋作の像がたっています。
懐に刀を差した像を見ていると、160年ほど前は、まさに生きるか死ぬかの時代だったことを告げています。
そして、長州発で日本を列強から救おうと決死の覚悟で活動した高杉晋作。
そこには、自分の名誉欲や権力欲など、みじんもありません。
だから英雄なんですね。