日本史上最高の指導者が「吉田松陰」ならば、日本で一番出世した人物は誰か。
木下藤吉郎(豊臣秀吉)と答える人が多いと思いますが、伊藤博文の生涯もまた、その名に恥じない実績を残していると思います。
時代背景は違うとはいえ、両者に共通するのは、
- 世界の中の日本という尺度で物事を考えていたこと。
- 世界から日本を守るために行動していたこと。
視野が広く、大局を見据え、そして信念をもって行動する。
こんなリーダーシップをとれる政治家さん。今の日本に何人いるでしょうか?
生意気言って申し訳ないけど、私のような庶民は、そういう人の出現を待っています。
知っての通り、伊藤博文は日本の初代総理大臣。
出典:公益財団法人 山口県ひとづくり財団より
そして、近代日本をつくりあげた「長州ファイブ」の一人です。
松下村塾の見学を終えた私は、自転車をこいで、伊藤博文の旧宅&別邸に向かいました。
「松下村塾」から「伊藤博文旧宅・別邸」へ
松下村塾から伊藤博文旧宅・別邸はごく近く、徒歩でも数分です。
吉田松陰の生誕地も近く、この辺りは、近代日本のあけぼのといってもよいのでしょうか。
そんな雰囲気たっぷりの路地を自転車で走ります。
途中にあった伊藤博文の像。
旧宅と別邸。中に入れるのは別邸です。
拝観者がいないみたいなので、先に「別邸」を見学しましょう。
萩市指定史跡「伊藤博文別邸」
松下村塾は、けっこう賑わっていたのに、誰もいない「伊藤博文別邸」。
この、空き巣のように人の家に忍び込んだ感覚、けっこう好きです(^^)
では別邸の中を徘徊しながら、偉人・伊藤博文の生涯を回想してみたい。
伊藤博文は、1841年に周防国熊毛に生まれる。実家は農家で、武士の生まれではない。
その後、萩に移り住み、父の十蔵が長州藩足軽の伊藤家に養子となったため、いちおう武士の家系となった。
最初の転機が訪れたのは1856年。15歳の時。
ペリー来航により、幕府の近海警備に長州藩も駆り出され、伊藤博文も相模湾の警備にあたる。
その際、上役の来原良蔵に目を掛けられ、松下村塾への入塾をすすめられた。
1857年。萩に戻った伊藤博文は、松下村塾に入塾。
ここで、吉田松陰はじめ、桂小五郎(木戸孝允)、久坂玄瑞、高杉晋作、井上馨らと行動を共にするようになる。
伊藤博文の尊王攘夷はけっこう過激であり、1862年には品川の英国公使館を焼き討ちし、天皇廃位を企てていた塙次郎を暗殺している。
安政の大獄で吉田松陰が処刑されたことも、過激な行動の引き金にはなっているだろう。
そして、その4か月後。暗殺の自戒から逃げるように、井上馨らとイギリスへ出国する。
当然、まだ日本は江戸幕府下であり鎖国状態。この英国渡航は、長州藩公認の密航であった。
当時の日本人が西洋の文化、産業技術をみれば驚くのは当たり前で、伊藤博文も攘夷論から開国論に転向する。
ところが、その留学中に、長州藩が関門海峡を通過する外国船を砲撃。
いわゆる下関事件が起こり、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四か国が長州に向かっていることを知ると、急遽帰国。
講和に奔走し、なんとか和睦にもっていくも、この下関事件により幕府は長州藩に武装解除を要求。
これに対抗する高杉晋作にまっさきに協力したのが伊藤博文であった。
勝てる見込みがない戦いにおいて、奇兵隊の出兵も拒否されるさなかで、孤立する高杉晋作をただ一人支持したという事実が、伊藤博文の長州における立ち位置を強固なものにしていく。
伊藤博文はのちに「私の人生で唯一誇れることがあるとすれば、このとき一番に高杉さんのもとに駆け付けたことだろう。」と言っている。
伊藤博文の生涯において、2度目の転機であろう。
伊藤博文の生涯の回想はこのあたりにして、一つ一つの部屋をたずねます。
いま、私は「離れ座敷」にいます。
別邸は左右に長く、むかって右手が「離れ座敷」。左手は「大広間」。
こちらは「大広間」です。
最後は、満州ハルビンで韓国の安重根に暗殺されてしまう伊藤博文。
安重根は、当時の日本において、伊藤博文こそが韓国併合に反対するほぼ唯一の政治家であったことを知らなかったのだろうか。
国指定史跡「伊藤博文旧宅」
五月晴れの空にかやぶき屋根が映える伊藤博文の旧宅。別邸の隣にあります。
別邸と違い、旧宅は内部には入れません。
ここから、松下村塾に通っていたのでしょうか。
松下村塾もそうだけど、こちらも当時のまま。
別邸は、東京からの移築だそうだけど、100年以上もよく木造住宅がもつものです。
伊藤博文の人生は、1841年から1909年まで。
日本国が、もっとも大きく揺れ動いた年代といってもいいでしょう。
現代は、情報にあふれている。
しかし当時は、情報を知るものは数少ない。
そんな中、ていねいに日本の進むべき道の舵を取ってくれた伊藤博文はじめ長州の偉人らに、私は感謝したい。
伊藤博文旧宅の見学終了。
ふたたび自転車に乗って、今度は吉田松陰生誕地をたずねてみましょう。