萩城城下町の散策も最終コース。
菊屋横町から伊勢屋横町を経て、江戸屋横町にならぶ「月輪山 円政寺」と「木戸孝允旧宅」を見学して、萩の町を後にしようと思います。
勉強之所&天狗の寺「円政寺」
どこまでも歴史の香りが残る萩の町。
南側から江戸屋横町に入ると、すぐ左手に現れるのが「円政寺」です。
住職というよりスタッフの方が、黙々と境内を掃除されていますが、参拝者はなし。
円政寺の歴史は古く、1254年に真言宗御室派の寺院として創建されました。
長らく豪族大内氏の祈願所でしたが、1870年にこの場所に移っています。
拝観料200円を払うと、なにか紙筒をいただきました。
広げてみると、こんなに立派な下町絵図でした。壊れないように家に持って帰るのが大変です。
さて、境内に入ります。
奈良や京都と違って、素朴さを感じるのはなぜだろう。
国を動かす総理大臣を3人も輩出した萩。
高杉晋作と伊藤博文がここでよく遊んでいたそうですが、それはいつの時代か。
円政寺がここに移ってきたのは1870年。
そのときは高杉晋作はもうお亡くなりになっているから。
高杉晋作が物恐れしないように、母親がこの天狗をみせて躾けたそうです。
物恐れどころか、日本一勇敢な英雄になってしまったじゃないですか。素晴らしいお母さまです。
こういう歴史の町で教育を受ける子供は、日本史・世界史を手っ取り早く覚えるだろうな。
歴史は暗記するものではなく、ストーリーとして知識を線から面にするものですから。
これが、高杉晋作と伊藤博文が幼少のころ遊んでいたといわれる有名な木馬ですね。
では、円政寺を出ます。
黙々と掃除しているおじさんにさようなら。
江戸屋横町を歩く
萩城下町の下町で、もっとも東に位置する江戸屋横町。
こちらはなにかというと、
蘭学者・青木周弼の旧宅でした。
幕末に医学で活躍された方ですね。
さらに江戸屋横町を北へ。
維新の三傑の一人「木戸孝允旧宅」
萩一人旅もこれが最後の見学。「木戸孝允」の旧宅です。
広い庭。というか庭なのかな。
木戸孝允を甦らせるような、年表や写真が並びます。
知っての通り、「木戸孝允」の旧名は「桂小五郎」。
幕末期、朝敵であった長州藩。
その指名手配から逃れるための改名。凡人には想像できません。
木戸孝允というと、明治維新後の「五か条の御誓文」の制定や、「岩倉使節団」の一人として不平等条約の撤廃のための欧米訪問など、知的な活躍がイメージされます。
しかし、彼はたぐいまれなき文武両道の剣士です。
その武士道精神を兼ね備えていたからこそ、「版籍奉還」や「廃藩置県」などにおいて、日本中の武士を相手に説得も成功したのでしょう。
「廃藩置県」の密議は、木戸邸のどこで行われたのでしょうか。
その密議には、大久保利通や西郷隆盛が集結していたとされます。そうそうたるメンバーです。
1833年、桂小五郎としてこの世に生を受けた誕生の間。
幼少のころは、松本川をいく舟を、船頭ごとひっくり返して遊んでいたとのことですが、信じられません(^^)
多くの幕末藩士がそうであるように、木戸孝允の生涯も波乱万丈そのものでした。
京都では、新選組の残党狩りにあい、こじきに扮したこともあります。
のちの「維新の三傑」の一人が「こじき」ですよ。
そのこじきに扮した木戸孝允を支えたのが、京都の舞妓「幾松」でした。
「幾松」とは結婚し、木戸孝允は生涯の伴侶をえたが、その後に「版籍奉還」やら「岩倉使節団」への出張があったので、なかなか夫婦でゆっくりとした時を過ごすのは難しかったでしょう。
ようやく一段落して、「幾松(のちの松子)」との洋行も計画されましたが、そのとき木戸はがんに侵されてました。
45歳にして病で亡くなるときの最後の言葉が「西郷もいい加減にしないか・・」。
時期的には、西南戦争が田原坂の激戦をこえたあたり。
西郷隆盛が、木戸孝允のこの言葉を直接聞いていたら、なんと答えたのでしょうか。
木戸孝允旧宅の庭には、萩の特産品である夏みかんがなってました。
5月上旬から中旬にかけて、甘くさわやかな香りのする白いみかんの花が咲くそうですが、5月15日の本日、見ることはできませんでした。