【萩一人旅】吉田松陰誕生地から萩の町と指月山を眺めてみる

萩の町は史跡にあふれています。

しかし、松下村塾も、吉田松陰の誕生地も、伊藤博文の旧宅も、いずれも東のはずれ。

川と川に囲まれた「萩デルタ」の外にあります。

それだけ、近代日本をつくり上げた偉人たちの生い立ちは、実は極めて庶民であり、常人では考えられぬほど並々ならぬ努力のたまものであった証でしょうか。

吉田松陰誕生地に向けて丘を登る

松下村塾、伊藤博文旧宅・別邸と見学した私は、地図順にしたがって、次は吉田松陰生誕の地に向けて自転車をこいでいます。

松下村塾から伊藤博文別邸まではすぐでしたが、吉田松陰誕生地は、丘の上にあります。

電動アシスト付きの自転車を借りたことの有難みを、めでたく享受します。

しばらく上ると、それらしき看板が。

これは、高杉晋作の草庵跡地顕彰碑です。

高杉晋作の旧宅は、萩の西のはずれのほうにありますが、ここに草庵を建てていたらしい。

吉田松陰先生像

「日本の志がここにある」とは、素晴らしい標語。

吉田松陰の像が立っていました。

隣の人物は、金子重之助。

自分の目で西洋の世界を見ようと、1854年ペリーが来航した際に、松陰が下田停泊中の船で密航を企てたときの仲間。

松陰を見上げるかたちで銅像が造られているのは、松陰を尊敬していた証でしょうか。

下田海岸のほうを向いているのかと思いきや、萩城のほう、つまり日本海の方角を見つめていました。

松陰はみずから自首し、伝馬町牢屋敷に投獄。

その後、幽囚となった際に、松下村塾での講義を開始したので、密航が失敗したのはよかったのか。

密航に成功して、松陰の見聞がさらに広まった場合、幕末の行く先はどうなっていたか。

そんなことを空想してみるのも面白いです。

吉田松陰誕生地から萩の町を眺めてみる

さて、松陰の誕生地は、その銅像の隣、少し歩いたところにあります。

残念ながら、松陰が住んでいた建物はありません。

当時の間取りを示す敷石が、想像をかきたてるのみ。

長州藩士・杉百合之介の次男として生まれた松陰は、吉田家に継いだ後もここに住み続けたといいます。

父の百合之介は、大変な学問好きで読書家。

松陰に農業を手伝わせながら、徹底して勉学に打ち込ませました。

それが、松陰の学問の礎になっていることは疑いないですが、密航に失敗し罪人となったときも、藩の牢獄に幽囚されたときも、松陰を支えた家族の愛がありました。

それが、松下村塾における数々の偉人を輩出した教育方法にシナジーを生んだ、ということもあるでしょう。

松陰誕生の地からは、萩の町を手に取るように見下ろせます。

萩城跡のある指月山(しづきさん)の向こうには、青く光る日本海。

松陰の眼には、あの日本海は、列強国が攻めてくる一里塚に見えていたのでしょうか。

長州藩は、本州の西の端。すなわち国境です。

国境で生まれたことが、松陰の感性を豊かにしたことの理由のひとつにもなるような気もします。

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