「勝本城跡」豊臣秀吉 文禄・慶長の役の兵站基地【壱岐一人旅 #4】

さて、壱岐のドライブは続きますが、壱岐で絶対に訪れたい場所がありました。

それが「勝本城跡」。

あの豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際、兵站基地として築かれた城です。

文禄・慶長の役の兵站(へいたん)基地であった「勝本城」

天下統一を果たした豊臣秀吉。

そして、明に攻め入るために朝鮮に兵を出した文禄・慶長の役。

私が学生だった頃の教科書には「朝鮮出兵」と呼ばれていた大陸への出陣は、西国の大名に呼びかけ、総勢16万からの軍勢を動かした大戦争でした。

その際に、兵站(へいたん)基地として、築城されたのが壱岐の勝本城です。

当時、壱岐を統治していた松浦鎮信(まつらしげのぶ)に命じ、わずか4か月で完成させたというのだから驚きです。

秀吉の死後、城は解体されましたが、一部の石垣は城の遺構として残り、現在は城山公園となっています。

4か月で完成させた見事な石垣

公園の坂を登っていくと、すぐに石垣が目に入りました。

素人考えですが、なぜ、戦いが終わったからといって、破壊しなくてはならなかったのでしょう。

石垣の官能的な曲線が、当時の美しさを彷彿させます。

秀吉をよく支えた弟の豊臣秀長。

そして秀長の家臣である本多正武が、500人の部隊を率い7年間もの間、臨戦態勢をとっていたとのこと。

この基地から、大陸で戦っている部隊への食糧や武器など供給を行っていました。

いまから、わずか400年前のことです。

石垣をバックに青く光る勝本港。

では、もっと勝本港を見渡せる上に登りますか。

勝本港を見下ろす稲荷神社

この稲荷神社も歴史は古いようです。

勝本城のどこが本丸であったのかわかりませんが、展望台がありました。

展望台に上がると、勝本港が手に取るように把握できます。

この位置からなら、敵が攻めてきても、味方が帰還しても、すぐにわかります。

出陣の際は、あの狭い入り江を、軍船がひしめいていたのでしょうか。

文禄・慶長の役が起きた理由

ところで、なぜ、豊臣秀吉は、朝鮮へ侵攻したのだろうか。

この「朝鮮出兵」自体、現代においては、各方面への配慮などから、呼び名を変えてきている。

さらに、様々な調査研究により、秀吉がなぜ、大陸に対して戦いを挑んだのか、諸説が語られるようになった。

なかでも、秀吉が朝鮮出兵に踏み切った理由は、ポルトガルやスペインなどの欧米列強から日本を守るため、というのが有力である。

すなわち、日本の安土桃山時代としてでなく、世界史の大航海時代という観点でこの事変を見つめなおすと、また違った見え方もしてくるということ。

当時、ポルトガル・スペインの両国は、海外に進出し、多くの地域を武力で植民地化していた。

そのとき、常套手段として使われていたのがキリスト教への改宗だ。

両国は、新天地に対し、貿易を認める代わりにキリスト教布教の条件を付け、さらに宣教師を送って、先住民をキリスト教に改宗することで、その地を制圧していったのである。

それに気づいていた秀吉は、「イエズス会」は日本を支配する目的でキリスト教を布教していると、はっきり悟っていたとのこと。

実際、イエズス会東インド管区巡察師「ヴャリニャーノ」がイエズス会総会長にあてた手紙などにより、日本人をキリスト教に改宗し、明の征服のためスペインの兵隊として使おうという意図が明らかだった。

 

冷静に考えても、日本が戦国時代だった16世紀半ばから後半。

ポルトガルはマカオに居留地を設立。スペインはマニラを占領。

世界地図で見れば、マカオもマニラも、日本から手の届く位置。

先見の明のあった秀吉が、夜も眠れなくなるほど恐れるのも無理のない話だ。

 

異教徒に対する列強のやり方は、虐殺である。

インカ帝国もアステカ帝国も、たった数百人のスペイン人に征服されている。

それが正しいとか悪いとかではなく、力のある国は、武力で力のない国を制圧する時代だったのである。

その時代、その時代の価値判断の基準を理解しないと、歴史というのは語れない。

 

朝鮮出兵に先んじて、秀吉は南の琉球王国に服属を求めている。

琉球を支配下にとれば、フィリピンやマカオ、つまり列強の動きをいち早く察知することができ、さらに、南蛮からの攻めに対する防波堤になる。

そして、そのあと朝鮮へ出兵している。

これは、まぎれもなく、日本の国防のための行動ではなかろうか。

 

スペインは、日本人をキリスト教に改宗し、明に攻め込もうとしていた。

明を征服したのちは、次は日本の番である。

であるならば、スペインより先に明を征服し、列強国に立ち向かうしかない。

これが、秀吉が朝鮮に兵を向けた説のひとつである。

現実感がともなってると感じるのは私だけであろうか。

 

ところで、九州平定直後に、秀吉はバテレン追放令を出し、キリスト教宣教師を国外へ追放した。

しかるに、松浦鎮信に協力し勝本城の築城に汗を流した大名には、キリシタン大名である島原領・有馬晴信(ありまはるのぶ)が含まれている。

そして、有馬晴信は江戸幕府に自決させられている。

戦国時代の無情を感じてしまう。

 

さて、城山を下り、パーキングへ向かうと、一つの墓があった。

松尾芭蕉の弟子である河合曾良(かわいそら)のもので、ここ勝本で没したらしい。

河合曾良の出身地は長野県諏訪市。これがゆえに、壱岐市と諏訪市は姉妹都市になっているという。

この柱は、諏訪大社の御柱であり、諏訪市から寄贈されたそうだ。

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