勝本城跡のある壱岐北部の勝本町から右回りで印通寺にいたる県道23号線。
この道を勝本から南に向けて走ると、道端に気をつけていないと見つけられないほどの小さな石碑がある。
私は、それを見逃さないようにクルマをゆっくりと走らせ、この碑の前で車を止めた。
なんの碑であるかというと、元寇、つまり西暦1,274年に元軍が攻めてきたときから700年を記念し、その無念を風化させないための石碑である。
したがって、ここは文永の役の古戦場である。
750年前の惨劇など想像もできないほど、まわりには平和な風景が広がります。
文永の役古戦場 犠牲者を祀る千人塚
最初に見つけた「高麗橋」のあたりから、1キロちょっと西へ走ると、正真正銘の元寇の古戦場があります。
元軍は、さきほど見物した「猿岩」の対岸にあたる「浦海(うろみ)海岸」に上陸し、内陸に攻め込みはじめました。
元軍が、対馬を襲ったのが文永11(1274)年10月5日のこと。
その900隻の船団は、14日には壱岐に襲来しました。
このあたりは、最後の激戦地だったそうです。
壱岐を襲った元軍は約400の兵。
武士団のみならず、無抵抗の島民まで全滅させられました。
犠牲となった島民の無念を祀るように千人塚がたてられています。
このような千人塚は、この壱岐に数多く残されているそうです。
勇敢に戦った「平景隆」を祀る新城神社
壱岐に上陸した元軍は、壱岐の守護代を務めていた平景隆(たいらのかげたか)の居城である樋詰(ひずめ)城に攻め込みました。
ここが、その樋詰城跡とされる新城神社です。
苔が覆いつくし、当時の惨状を語るものはなにもありません。
元軍は14日の夕方に壱岐に上陸しましたが、翌15日の早朝には樋詰城を襲います。
平景隆は100騎の家臣を従えて出陣しますが、元軍は400人。
そのうえ、日本風の一対一の対決ではない集団戦法。
「てつはう」と呼ばれる火薬を用い、矢には毒を盛る卑怯なやり方。
景隆軍はなすすべもなく全滅しました。
景隆には、元軍が対馬を襲ったことは聞かされていたそうですが、情報は入っても、準備ができないもどかしさ。
景隆の心境は察して余りあります。
壱岐に渡る前に対馬を旅してきたので、とくにそう思うのでしょうが、国境の島というのは、先兵として常に本土を守ってきました。
ときの執権・北条時宗は、対馬や壱岐の惨状を知っていたのでしょうか。
学校教育では、元寇の2度の襲来に対し、日本軍は台風などの援護もあって「勝った」とされています。
景隆は、大宰府へ元軍の壱岐襲来の伝令を走らせたあと、自分は自害しました。
歴史というのは、正しく学んでこそ歴史である。
そんなことを考えさせられた新城古戦場でした。