久しぶりに、信じられないというか、目を疑う光景を見た気がする。
米軍が撤退を決めたアフガニスタンにて、タリバンの支配から逃れようとする国民が、貨物室にすし詰めで、あるいは機体にしがみついて、出国しようとしている映像だ。
鉄道やバスにしがみついて旅する光景は、私も見たことがある。
しかし、飛行機でそれをやっては、どんな結果になるのか想像できなかったのだろうか。
9.11の映像も衝撃的だったが、こちらは人間の意思によるもの。
それほど、タリバンという組織は恐ろしいのだろう。
タリバンは、情勢の安定を目的に、アフガン人の身の安全を保障し、女性の復職なども公約として掲げている。
しかし、市民のほとんどは、そんなもの信じていない。
一般住民ならまだしも、政府系の人間であれば、時を経れば粛清されるのは自明の理。
このあたりは、日本の幕末や戦国時代と何ら変わらない。
飛行機にしがみついてまで国外へ逃げ出したいというのは、理性を超越した行動なのかもしれない。
米軍撤退の決定をうけ、なんとガニ大統領は亡命。
大金をトラックに詰め、カブール空港から逃亡。運び込めない札束は、滑走路に置き去りにしたという。
ルーマニア革命が頭によぎったのかもしれない。
それにしても、「おそまつ」な元大統領である。
東西冷戦の末にうまれた「タリバン」
アフガニスタンの混乱は、1979年までさかのぼる。
平和な王国であったアフガニスタンに、ソ連軍が侵攻したのが1979年12月。
理由は、国境を接する国々をソ連寄りの政権に仕立て上げたかったから。
これに対しアメリカは、パキスタン経由で軍事物資などの支援を行い、ソ連軍に対抗。
ソ連軍が1989年2月に撤退し、アメリカもまた撤退すると、残されたのは大量の武器と、アフガニスタンからパキスタンに逃れてきた難民。
彼らが、イスラム原理主義者である「タリバン」となる。
すなわち、「タリバン」は東西冷戦の負の遺産だ。
「タリバン」は、こうして90年代のアフガニスタンを支配したが、今回はどうなるのか。
90年代の「タリバン」は、イスラム原理主義を地でいっていた。
映画や音楽などの娯楽は禁止。
女性は一人では行動できず、必ず家族が同伴。
犯罪者はイスラム法で裁かれるなど。
前述のように、「タリバン」は「女性の復職」など、残忍なイメージの転換に躍起になっているとみられるが、早くもカブール市内では、美容室のポスターが黒く塗りつぶされるなど、「タリバン」も一枚岩ではない情勢が透けて見える。
利害関係者が複雑にからみあい、もはや誰がよい、誰が悪いと、単純な構図ではなくなってしまっているが、武器も持たない女性に対し、話し合いにも応じず、ひたすら武力で統制するタリバン。
こんな組織に、国家をまとめられるのだろうか。
2001年の9.11をきっかけに、タリバンが国際テロ組織アルカイダをかくまっているとして、米軍がアフガニスタンに侵攻。
それから20年間、米軍はアフガニスタン統治のために駐留した。
この20年間はいったい何だったのだろうと思う。
私には多くを語る資格はないが、結局のところ、米軍も対話ではなく、武力で統治しようとしていた現れであろうか。
平和な王国だったアフガニスタン
アフガニスタンは、古代から東西文明の要衝。
文明の十字路としてのシルクロード遺跡も数多い。
出典:「深夜特急4シルクロード」著:沢木耕太郎
1970年台は、おなじみ深夜特急の沢木耕太郎さんが、アフガン・ポスト・バスに乗って、赤茶けたシルクロードを旅している。
カブールの安宿では、安く泊めてもらうかわりに、「宿の客引き」のアルバイトをさせられている。
カブールの街を歩けば、ヒッピーたちが口ずさむビートルズのナンバーが流れてくる。
そこには、イスラム原理主義のにおいは、どこにも感じられない。
現代社会でも、交通量の多い交差点は事故も多い。
アフガニスタンは、古代からの交通の要衝であったがゆえに、混乱に引き込まれてしまったのだろうか。
欧米型民主主義だけが絶対的平和とはいえない地球上の世界
欧米型民主主義と共産主義のエゴによって引き起こされたアフガニスタン紛争。
ソ連のアフガン侵攻から、はやくも42年。
これから、どんな結末が待ち受けているのか。
今回の件で、認識しなくてはならないのは、欧米型の民主主義だけが平和をもたらすなんてことは絶対にないこと。
欧米型民主主義も、長い歳月と数えきれないほどの犠牲を払ったうえで、ようやく築かれたものであることは疑いようのない事実。
しかし、それが正解でない世界だってあることを認めなくてはならない。
私自身も、どちらかというと、押し付けられるのを嫌う性格。
欧米型民主主義とキリスト教社会に、反対論者ではないが、一歩距離をおきたい人間。
アフガニスタンという国家。
どのようなかたちの社会の営みでもよいが、平和に着地する姿を見極めたい。
同じ地球上に生きる人類として切に願っている。