約束の9時に、ホテルのロビーにガイドさんがやってきました。
流暢に日本語を話す、漢民族の方です。
今日一日よろしくお願いします、と握手してから、クルマに乗り込みました。
今日は、今回の11日間の旅の中でも、特に楽しみにしていた行程です。
トルファン郊外 ガイド付き1日ツアーがスタート
1,500元(約24,000円)で、トルファン郊外の遺跡、高昌故城、アスターナ古墳群、火焔山、ベゼクリク千仏洞、蘇公塔、交河故城、カレーズ楽園を1日で巡るプラン。
各遺跡は遠く離れていて、公共交通機関で回るのは無理だし、専用車でもありオーダーしました。
ホテルでも申し込めるそうで、その場合は日本語ガイド込みで1000~1200元だそうだけど、当日の手配ができなかったら目も当てられないし、差額の300元は日本からの予約料と考えました。
クルマの中で、ガイドさんが、トルファンという町を次の4点で説明してくれました。
- 世界で2番目に暑い町。2017年に49度を記録。
- ブドウが一番甘い。日照時間が長いためだそう。このブドウで作られた「楼蘭ワイン」は格別。(敦煌のガイドさんも言ってたな・・)。値段はピンきりだけど、100元(1,600円)も出せば、かなりいい質のワインを飲めるとのこと。
- 世界でもっとも乾燥した町の一つ。年間降水量はたった16mm。
- 世界でもっとも低い場所の一つ。海抜マイナス158mで、これは死海に次いで低いらしい。
過酷な環境に思えますが、かつては天山北路と天山南路に分かれるシルクロードの要衝であり、トルファンは繁栄を極めたそうです。
クルマは、まっすぐトルファン郊外に進みます。
火焔山のふもと 高昌故城への道
クルマはすぐに砂漠の中に入ります。
そして、車窓左に現れた山。ガイドさんが、「火焔山」と教えてくれました。
これが、三蔵一行の行く手を阻んだ「火焔山」。
火焔山のふもとに、高速道路が敷設されてるのも対比の妙ですね。
しかし、すごいところだな。しかも、海抜がマイナスである不思議。
火焔山のふもとに検問所。ガイドさんに、「絶対、写真撮らないでくださいね。」と念を押される。しかし、ほんとに炎がでてきそうな風景だ。
私が、この写真を撮っている間に、ボンネットからトランク、下回りまで、警官が徹底的にクルマをチェックしています。でも、私の身分確認はなし。
火焔山のふもとは公園にもなっているようです。
ここで右に折れ、高昌故城に向かいます。
砂漠の世界に、樹木が生い茂る不思議。
そして、高昌故城に到着です。
玄奘三蔵も訪れた高昌故城
日も昇って、かなり暑くなってきています。世界で2番目に暑い場所トルファンの本領発揮です。
さっそく、玄奘三蔵が出迎えてくれました。三蔵法師が、天竺(インド)へ行く途中、この高昌国に立ち寄ったという話は、あまりにも有名です。
中に入ると、やっぱり、中国とは文化が一味違う。なんとなくウイグルのにおいを感じます。
高昌国に関するレジェンドたち、かな。
電動カートで出発です。故城内の敷地はとても広く200万平方キロメートル、全部徒歩で回ると2時間以上かかるとのこと。
遺跡の中を反時計回りに進むようです。
同乗者は、私とガイドさんのほかに、4人+ガイドの5人。計7人乗っています。みんなヨーロッパの人っぽい。
遺跡らしき土台が見えました。
この遺跡、たしかに広いですが、風化が激しく、遺跡としての原型を保っているのは、玄奘三蔵がこもって断食したといわれる宮城ぐらい。
とはいうものの、歴史ある場所であることに違いありません。
最盛期には、人口3万人、僧侶3千人が住んでいたらしい。
これも遺跡なのかな。仏塔のようです。
遺跡の背後には火焔山。
ガイドさんが、指差して説明してくれます。
そういうところでは、止まって欲しいな、と思うんですが、電動カートはひたすら走り続けます。
遺跡の外城部。
さすがに支えている部分は、あとからつけたものでしょう。
宮城が見えてきました。
玄奘三蔵が説法を行った宮殿跡
宮城、つまり宮殿あとに到着。
カートから降りて、みんな思い思いに散歩します。
私はガイドさんについて行きます。
このガイドさんの携帯に、しょっちゅう電話が入ります。
「どうかしたんですか?」と聞くと、昨日、日本人のグループをガイドした際に、グループの中の一人がパスポートを紛失してしまったらしい。
気の毒に、その一人は、グループから別れ、トルファンのホテルで足止めとなり、このガイドさんから、パスポート再発行手続きなどの指南を受けているとのこと。
たしかに、宮殿の雰囲気を感じます。
西南大仏寺とあります。
ここが寺門だったようですね。
ガイドさんの丁寧な玄奘三蔵物語
ガイドさんの丁寧な説明が始まりました。
それによると、
- 西暦629年。玄奘三蔵は、唐の国に仏教を広めるべく、天竺(インド)に旅立つ。唐政府の許可がおりていない状態、いわば国禁を犯した旅路であった。玄奘三蔵が27歳のときである。
- 天山北路を目指す旅の道中は、苦難を極めた。食料と水を失った状態で、ようやく伊吾(現在のハミ)にたどり着いたが、体力の消耗激しく、とてもこのあとの旅を続けられる状態ではなかった。
- ところが、偶然にも高昌国の使者がハミを訪れていて、玄奘三蔵の姿が目にとまった。高昌国の国王鞠文泰が仏教の大変な信者であることを認識していたその使者は、すぐに国に帰り、そのことを報告。国王は、即座に、玄奘三蔵を客人として迎え入れるようにハミに使いを出した。
- 玄奘三蔵は、高昌国から手厚い歓待を受けた。玄奘三蔵は、これを仏縁と受け止め、急ぐ旅ではあったが、2ヶ月ほど滞在し、民へ仏教の説法を説いた。
- 高昌国の国王は、玄奘三蔵にすっかり共鳴してしまい、天竺に旅立つ玄奘三蔵を引きとめようとする。しかし、インドの経典を持ち帰るという最終目的は、なんとしてでも貫き通さなくてはならないと考える玄奘は、絶食を行うことで鞠文泰に自らの意志を伝える。絶食は4日に及んだという。
- 鞠文泰は、玄奘三蔵の意志の固さを知り、高昌国に引き止めることをあきらめ、滞在を1ヶ月伸ばしてもらう。そして、玄奘三蔵の旅立ちに際しては、4人の侍従や旅の道中で必要な日用品、西域24カ国の国王への紹介状と贈り物、さらに20年分の旅費として黄金100両などを献上。この高昌国の破格な援助がなくては、玄奘三蔵は、仏教の経典を唐に持ち帰ることは不可能だったのではないか、と言われている。
- 玄奘三蔵は、ウズベキスタン、アフガニスタンを経由し、インドに到着。求法と仏跡巡礼のためインド全土を周遊したのち、帰国の途につく。
- 帰途に、高昌国に立ち寄り、3年間とどまって、民への供養を施すことが鞠文泰との約束であったが、玄奘三蔵のインド滞在中に、高昌国は唐によって滅ぼされてしまい、鞠文泰も亡くなっていた。
- 玄奘三蔵は、経典657部、仏像8体、などを唐・長安に持ち帰り、大雁塔にこもって、経典の翻訳に生涯を捧げた。
聞いていて、感動して涙が出そうになりました。
3分の1くらいは、私も知っていましたが、今から約1400年前に、高昌国と玄奘三蔵の間で、こんなストーリーがあったとは。
さて、その宮殿跡です。
こちらが正面。
そして、向かって右側にあるのが説法堂。
説法堂の入り口。
内部には屋根がありません。雨が降らないので、これでいいのでしょう。
あの角が、玄奘三蔵が4日に渡って絶食をした場所らしいです。すごい・・ 目に浮かびそうです。
タイムマシンがあったら、見てみたい。当時の姿を。
しかし、この場所だけ、よく残っていたものですね。
実は、説法堂の中の日陰は、けっこう涼しいです。しかし、一歩外に出ると、灼熱の太陽が。
玄奘三蔵が長安を出発したのが8月。
では、この地に滞在していたのは秋から冬にかけて。寒暖の差が激しいのもトルファンの特徴。
さぞ、寒かったことでしょう。
今度は主殿へ。
太陽の光が強すぎて、写真がうまく撮れません。
いくらいいカメラを持っていても、宝の持ち腐れですね。編集もうまくいかないし。
正方形の形をした仏塔。
たぶん、あの穴の中に仏像が置かれていたんでしょう。持ち去られてしまってますね。
三蔵法師が、ここを歩き回っていたと考えるだけで、足が震えますね(大げさだ・・)
高昌国は、唐に滅ぼされましたが、安史の乱により唐の支配が弱まり、ウイグル帝国の支配下になるといった経緯を経て、明の時代にトルファンに併合されるまで、約1000年の間、国都として栄華を誇っていたといいます。
しかし、暑い・・5月だというのに、なんたる暑さ。30度以上はカルくあります。
火焔山から吹いてくる熱風っていうとこですか。
電動カートに戻りました。
結局、宮殿跡しか立ち寄らなかったですが、ほとんどの遺跡が壊されちゃってるんで、仕方ないですね。
私にとっては、三蔵法師の影に、ほんの少しでも触れることができたような気がして、感無量です。
暑いので、お土産屋さんで一休み。
高昌故城をあとにします。
最後に、ふたたび玄奘三蔵の像と対面。
偉大な人だとは思ってましたが、さっきのガイドさんの話を聞いて、ますます雲の上の人になってしまいました。(はじめから雲の上の人だって笑)