「人材育成において日本史上最高の指導者は誰か?」とたずねると、名を馳せた成功者たちは、口をそろえて「吉田松陰」の名を挙げることが多いという。
出典:萩市観光協会公式サイトより
その吉田松陰が、日本を動かす重要人物を多数輩出していったのが「松下村塾」。
萩を旅して、近代日本をつくったといっても過言ではない「松下村塾」を訪れない手はないでしょう。
萩の町で、お寿司のランチを食べた私は、自転車を東にこぎ、「松下村塾」に向かいました。
「松下村塾」は、萩のデルタの外、松本川を渡った東の端にあります。
萩の町を「松下村塾」へ
さて、「すし処 豊月」で美味しいお寿司をご馳走になった私は、電動アシスト自転車を走らせます。
途中、「萩カトリック教会」を横に見て、
松本川を渡り、
山陰本線をまたいで、
松陰神社の駐輪場につきました。
「松陰神社」の境内を歩く
松下村塾のある松陰神社は、そんなに広くはないですが、入り口には立派な鳥居が出迎えてくれます。
簡単な境内図。少し歩くと「松下村塾」にたどり着くことがわかります。
一番奥にあるのが、松陰神社の本殿ですね。
そして、松陰神社の周辺にも、近代日本をつくりあげた偉人たちの史跡がいっぱいあります。
これは楽しみです。
境内に入る前の入り口で見つけた石碑。
坂本龍馬の名前もあるし、「薩長土連合密儀」とあります。
これこそ、坂本龍馬が土佐藩士の武市瑞山の書簡をもって、長州志士たちの中心的存在であった久坂玄瑞(くさかげんずい)に接触した場所。
実際の場所は、境内ではなく道路沿いの旅館であったそうだが、たまたま薩摩藩士の田上藤七も同藩士樺山三円の書簡を持参し、三藩士が一堂に会した。
三藩士はいずれも攘夷派。こういうのを運命の出会いというのでしょう。
ちなみに、久坂玄瑞は、「松下村塾」の塾生。
だけでなく、高杉晋作とともに、松下村塾卒業生の双璧をなすべき人物。
松陰神社の境内に足を踏み入れた途端に、度肝を抜かれた感覚です。
そして、こちらが「学びの道」。参道とは反対側の80mほどの小径。
こちらは、花月楼。
もともとは江戸時代の茶室。
しかし、松下村塾出身の品川弥二郎が、境内に移築したものとのこと。
さて、このあたりから雰囲気が出てきます。
もう、このすぐ先が「松下村塾」です。ちょっと、武者ぶるいしてきました。
おお・・・授業中のようです(^^)
今の日本をつくりあげた「松下村塾」
当時の建物がそのまま現存している「松下村塾」。
ゴールデンウイーク明けの土曜日ですが、さすがの「松下村塾」大変な人気です。
2015年に、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼・造船・石炭産業」を構成する一部として世界遺産登録されています。
ところで、中に入れないはずの塾に人が。何かの催しでしょうか。
実際の「松下村塾」も、身分や出生、そういった立場関係なく、子供たちまで含めて希望者を集めて開かれていました。
そして、塾はなんと無料だったそうです。
ご存じの通り、吉田松陰の人生は平穏ではありません。
ここから先、塾のまわりを歩きながら、しばらく松陰の生い立ちと生涯に触れてみたいと思います。
吉田松陰の生涯
吉田松陰の出生は1830年。長州藩士の杉百合之介(すぎゆりのすけ)の次男として生まれる。
最下級の武士の家庭で、生活は貧しかったが、幼いころから農業を手伝うかたわら、父・百合之介から読書をたたきこまれ、「神国由来」などを音読していたという。
その後、吉田家の養子となった松陰は、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で兵学の指導を受け、兵学にたけることになり、弱冠11歳のとき、藩主・毛利敬親(もうりたかちか)の前で兵学講義を行う。
その理論の見事さに敬親は非常に驚き、「天才がいる」という噂が萩城下中に広がったらしい。
その後、藩に認められた松陰は、見聞を広めるための旅に出るが、長崎を訪れた折、西洋文化とその技術の高さを目の当たりにし、日本の危機感を覚える。
長崎訪問が松陰が20歳。1850年であり、アヘン戦争で清がイギリスに敗れてからわずか8年後であったことも、当然影響しているだろう。
そして松陰は、自分の目で西洋の世界を見ようと、1854年ペリーが来航した際に、下田停泊中の船で密航を試みるが失敗。
みずから自首し、伝馬町牢屋敷に投獄。
死罪は免れたものの、長州に送り返され、野山獄に幽囚。松陰が25歳の時である。
野山獄には、ほかにも囚人たちがいて、松陰は囚人たちに「孟子」の講義をしていたそうだ。
勉学に目覚めて、改心した囚人たちもいたという。
また、教えるだけでなく、囚人たちの俳諧や書道などの長所を取り込み、みずからの学びの時間にもしていた。
その後、野山獄を出所し、自宅謹慎を命ぜられたのが、こちら「吉田松陰幽囚ノ旧宅」である。
しかし、これが、松陰の講義のはじまりである。
松陰は、この幽囚室におさまると、希望者を募って「武教全書」の講義を開いた。
その講義の評判はまたたくまに広がり、近所の子どもまでもが集まってくるようになったとのこと。
子どもが、自分から進んで学びたくなる講義とは、どういったものだったのだろうか。
松陰のとる講義は、書物を読むだけでなくポイントとなる点を書き写させる。
学んだことを知識としてだけでなく、行動に移してみる。
そういった積み重ねを、複数名で対話し議論を交わすなど、アウトプット型だったようだ。
詰め込み型の現代の日本の教育に、もっとも足りてない部分かもしれない。
そして、わずか3畳半の幽囚室では手狭になり、1857年に「松下村塾」を松陰が引き継ぐこととなる。
塾では、午前の部、午後の部、夜間の部と分かれてはいたが、塾生は来たいときにいつでも授業を受けられたという。
塾生が夜通し勉学にのめりこむ際は、松陰が朝までつきあうこともしばしばであった。
松陰の塾生は、約92名。
この92名がいなかったら、日本は列強国の手に陥っていたといっても過言ではないだろう。
ここにあるように、吉田松陰がこの塾で教育した期間は、たったの1年。
幽囚室での期間を入れても、2年半に過ぎない。
それは、松陰が日本の損得も考えず日米修好通商条約といった不平等条約を結んだ幕府に不満を抱き、「安政の大獄」により、処刑されたからである。
1859年、松陰が29歳の短い人生を終えた瞬間だった。
しかし処刑前日、松陰は遺書となる「留魂録」に、「私が死んでも、国を思う私の気持ちだけは永久に残しておきたい」という意味の歌を書き残し、その意志は間違いなく塾生たちに受け継がれ、倒幕への原動力となっていった。
その、近代日本をつくりあげた塾生たちがこちらである。
久坂玄瑞に高杉晋作、維新の三傑のひとり木戸孝允に、初代総理大臣の伊藤博文など。
日本に革命を起こす、これだけの人材を輩出した「松下村塾」。
世界遺産登録は、当然の成り行きであろう。
こんな塾が、現代にもあったら、畏れ多いが私も入塾してみたい。
御祭神は53柱「松陰神社」
境内の一番奥にあるのが「松陰神社」です。
こちらが、松陰神社本殿。
主祭神は、もちろん吉田松陰ですが、そのほかに祀られているのは、なんと53柱。
(神様は、柱と数えるので)
その53柱とは、松陰の遺書「留魂録」を後世に伝えた久坂 玄端、高杉 晋作など53人の名士。
文字通り、この方々は神様なんですね。
こちらは、松門神社。
それにしても、東洋の地域において、これだけの革命的な転換を起こせた国はないでしょう。
我々日本人は、もっと長州、いまの山口県を厚く信仰してもよいのかもしれません。
そんな感想を受ける「松下村塾」散策でした。