京都・伏見は、酒蔵の街として知られてます。
そして江戸時代には、参勤交代の宿場町であり、そして大阪や北陸などとの水運・陸運の交通の要衝であることもあいまって、旅人が行き交うたいへんにぎやかな街でありました。
月桂冠大倉記念館で、清酒を5杯もいただいてしまった私は、真昼間からほろ酔いで伏見の街を散策します。
乗り損ねた「十石舟」乗船時間は50分
ほろ酔い(しつこいw)の私は、あてもなく伏見の街の南を流れる濠川に沿って歩きます。
有名な十石舟ですね。
柳のたたずまいが芸術の域です。
乗ってみようかと近づくと、なんと昼休み中。
午後は13時から20分おきに出航することを確認して、乗り場を離れます。
船でもお酒を楽しめるのかな(^^)
と、あとで来るつもりだった「十石舟」。
のちの調べで、乗船時間が50分もかかることが判明。
本日は京都祇園の石塀小路に旅館をとっています。そこへのチェックインに遅れたくないので、みすみす乗り損ねました(^^)
まあ、しかし、この「十石舟」の真骨頂は春。
サクラの季節は、それこそサクラ舞い散る濠川を花見酒としゃれこめるようです。
再訪の楽しみができたということにしておきましょう。
東海道は五十七次 五十四次目の宿場町だった伏見
ここ伏見は、江戸時代の五街道のひとつ東海道の宿場町として栄えた町。
ところで、伏見は、東海道の何次目の宿場町かご存じですか?
ながらく東海道の宿場は五十三次とされてきましたが、近年、東海道は五十七次であったという意見が唱えられています。
つまり、東海道の五十三次目の街は、滋賀県・大津。
そして、京の三条大橋にいたるわけで、すなわち伏見が現れません。
安土桃山時代、伏見に城を築城した豊臣秀吉は、伏見と大阪を最短距離で結ぶため淀川に沿った「京街道」を造らせました。
そして江戸時代となり、徳川幕府は「京街道」に、新たに「伏見宿」「淀宿」「枚方宿」「守口宿」の四か所の宿場町を設け、参勤交代の大名たちは、大津の次は伏見に宿をとるようになります。
したがって、伏見は東海道の五十四次目の宿場町ということになるんですね。
この看板を見て、十石舟の乗船時間が50分であることを知りました。
陽のあるうちに石塀小路の旅館に投宿したい私は、今回の乗船を断念せざるをえませんでした(^^)
でも、濠川沿いに歩いてるので、船に乗ったのと同じ景色を堪能しています。
12月でも紅葉を鑑賞できる伏見の街。
十石舟が、けっこう勢いよく通り過ぎていきました。
最盛期には、千艘以上の船が、ここ伏見に発着していたと聞きます。
濠川沿いの史跡を眺めて幕末を感じてみる
宿場町として栄えた伏見は、幕末の激戦地でもありました。
なんか、実はすごいところを歩いているんだなと実感。
遊歩道を歩いていくと、様々な史跡に出会います。
坂本龍馬とお龍。ここまでくると、完全に幕末ですね(^^)
あとで、船宿「寺田屋旅館」にも寄ってみるつもりです。
とても雰囲気の良い、濠川沿いの遊歩道。「京街道」を歩いているんだ、と自分に言い聞かせます。
お、また十石舟と出会います。
けっこうすごい勢いなんですよ。アマゾン川の波が両岸の樹木をなぎ倒すかのごとく、遊歩道が波をかぶります。
タイムマシンがあったら、当時のにぎわいをみてみたい伏見港。
なんかイメージがわくなあ、このカーブ。
ここで、旅人や物資が行き交っていたんですね。感動します(^^)
京都の豪商「角倉了以」の功績碑。私がよくプレイする「太閤立志伝」にも登場する人物w
私財を投げうって、伏見から三条まで川を掘った人。
実際に掘ったのは労働者(^^)ですが、現在の価値で150億円以上の一大プロジェクトだったそうです。
その工費は、通行料ですぐに元をとったとか。さすが豪商。
ふたたび現れる十石舟。
対岸から眺める坂本龍馬像。では、そろそろ「寺田屋旅館」に行ってみますか。