「おカネはそこらじゅうにあふれている」という表現はキライです【お金に対するリスペクト】

突然ですが、「おカネはそこらじゅうにある」というニュアンスの言葉をたまにみかける。

これは、世界的に異次元といえるほどの金融緩和をさす場合もあれば、情報革命がロングテールの効果を生むといったケースをさす場合もある。

あるいは、「身の丈にあった価値観を求めていれば、それはすでに『お金持ち』になっている。」みたいな、新興宗教のスローガンそっくりの表現も。

 

どちらにしろ、この手の発信は、おカネに対する敬意が感じとれないので、私は嫌いです。

なんで、こんなことを私がつぶやいているかというと、たまたま出席したセミナーで、このような発信を目にしたから。

 

セミナー自体は満足のいく素晴らしいものだったけど、このおカネに関する意見はちょっと受け入れられなかった。

 

私は感情論では行動せず、どちらかというと理論的に考えるタイプ。

だから、先の3つの事象や概念は、理屈として正しいということもわかる。

 

しかしながら、もし本当に、おカネがそこらじゅうにあるのなら、世の中から貧困はなくなり、おそらくは貧困が原因のひとつとなっている子供への虐待もなくなっているはず。

 

私は、貧困や虐待のニュースは耳にしたくない、弱い人間です。

だから、おカネや知恵のある人に、貧困や虐待の問題を根底から解決してもらいたい。

地球上全てと言わないまでも、少なくとも日本からは、そんな悲しいワードを取り払ってもらいたい。

当たり前だけど、おカネがなければ貧困になるんです。

貧困になれば、生きていくのも大変になる。

これは、おカネがそこらじゅうにあっても、うまく行き渡っていないことを如実に表しています。

 

だから、生意気な私個人の意見だけど、軽々しく「おカネはそこらじゅうにある」と表現してもらいたくない。

私自身、今現在、おカネに苦労することなく、幸せな人生を送れている。

本当に幸せだと思うけど、貧困をなくす力は、私にはない。

仮に財力があったとしても、貧困を撲滅させられるのかどうか。

おそらく構造的な問題も含まれているので、とても困難な難題なのだと思う。

だからこそ、私は、いま、こうしておカネの心配をしなくてもよい生活に、心から感謝する。

 

だから、「おカネはそこらじゅうにあふれてる」という表現も、そのように発信する人たちも好きになれない。

 

私は、いつも、おカネが呼び起こす不条理に対する無力感に怯えている。

それは、資本主義社会で生きていくためには、絶対におカネは必要だからだ。

 

情報革命の世の中、商流をうまくコントロールして、「おカネはそこらじゅうにあふれてる」状態をいつでも作り出せる能力をもっている人もいる。

しかし、そうであっても、おカネには敬意を払うべきだと私は思う。

お金に対してリスペクトがない方々とは、私はたぶんうまく付き合えない。