「時刻表昭和史」by宮脇俊三 「不要不急」という言葉で思い出す一冊【おすすめの本】

世の中、「不要不急」で一色ですね。

「不要不急」の意味は、言葉通り、「重要でなく、急ぎでもないこと」。

その基準は、各々国民が考えること、ということで、政府としても、有事の際の一律の行動の制約は非常に困難であり、苦渋の選択であることが透けてみえます。

この「不要不急」という言葉、実は旅行者には聞きなれていて、外務省が恒常的に使っている言葉です。

すなわち、政情不安な国への渡航などを、この言葉を使って自粛を呼びかけたりするんですね。

「不要不急」の言葉を巡って、外務省とのやり取りはこちら

ところで、今から80年ほど前、国家をあげて「不要不急」が叫ばれていたことをご存知ですか。

宮脇俊三著「時刻表昭和史」とは

宮脇俊三氏は、特に鉄道紀行が専門で、内外の鉄道を乗り歩いては紀行文を書き下ろされていた作家です。

氏は、それこそ物心ついたころから時刻表に親しみ、「不要不急」の旅を繰り返していました。

氏の生まれは1926年、満州事変が起こる5年ほど前。

ですから、氏が「不要不急」の旅を繰り返していたのは、まさに当時の大日本帝国が、国民に対して「贅沢は敵だ!」「不要不急の旅行はやめよう!」と呼びかけていた時代でした。

治安維持法や国家総動員法が制定される中でのそれですから、氏の旅は、それこそ命がけであったことは、想像に難くありません。

しかも、当時、氏は10代の学生です。

学生の身分でありながら「不要不急」の旅をする。

「肩身の狭い」を通り越して、旅行目的を問われたら拘束されるのでは、という恐怖に震えながらの旅行記なんです。

旅人の目線で当時の大日本帝国の様子が描かれている。

一般的な昭和史ではなく、ごくふつうの旅好きの少年の目から見た情景なので、当時の様子が臨場感を持って伝わってきます。

たとえば

当時の車掌は、今とは比較にならないほど威張り散らしていた

戦時中で神経が高ぶるのは仕方ないにしても、列車が海岸線を走るときに、威圧的に乗客に窓を閉めるように指示したり。

特急列車に誤乗してしまった老人を、居丈高な口調で叱責したり。

そういったシーンを目の当たりにして、せっかくの旅行気分も台無しだ、と氏は表現しています。

東京駅が国際ターミナルとして玄関口になっていた

国際列車「富士」が出発するときなど、必ず重要人物の出発式のようなものが行われていたとの描写がある。

山口県の下関行きの特急列車「富士」は、連絡船で韓国に渡り、そのあとの接続が考慮され、満州国やヨーロッパへ最短時間で到達する列車だったようです。

私の手元に昭和15年の「汽車時間表」があったので、満州里までの最短経路を表記しておきます。

日付

午前

午後
1日目   東京15:00発(特別急行「富士」)
2日目

下関9:25着

下関10:30発(関釜連絡船)

釜山18:30着

釜山19:00発(急行「ひかり」)

3日目

(車中)

新京21:45着

新京22:35発

4日目

ハルビン6:20着

ハルビン10:30発

(車中)

5日目 満州里10:55  

昭和15年の時刻表では、満州里まで。

それ以前の時刻表では、「欧亜連絡」という欄があって、満州里からシベリア鉄道に乗り継いで、モスクワやパリに行けるメインルートだったようです。

そんなこともあって、実は満州里は訪れてみたい街の一つです。

駅弁やさんは乗客に見つからないように跨線橋の下に隠れてる

配給を受けているので、仕方なく駅弁を売っていたらしい。

隠れているのは、乗客に見つかったら、それこそ乗客同士で、駅弁のつかみ合いがはじまるから。

カネよりもモノのほうが値打ちあるという、まさにインフレの時代でした。

私が感銘を受けたシーン

その頃の北海道は遠い遠いところだった。その「遠さ」と北海道への憧れの感情をどう表現したらよいだろう。

時刻表を眺めていても、北海道のページにくると異国の香りがした。

長万部、倶知安、音威子府・・・ほんとうにそういう所があるのだろうかと思うほどだった。

第8章 急行1列車稚内桟橋行き より抜粋

氏は、父とともに、家を出たとき、足が地に着かない思いをした。

さらに、北海道への旅行は、今日における海外旅行以上のイベントであったらしい。

旅の道中では、列車の食堂車のメニューに「鮭フライ定食」があったこと、以後、これ以上うまい「鮭フライ」を食べたことはない、と綴っています。

私も、10歳のとき、生まれて初めて北海道を一人で旅して、夢心地になりました。

 

戦争の結末を見ずに死ぬ気がしていた

氏からしてみたら、不治の病にかかった気持ちであったのだろうか。

でも、当時の日本人は、生きるか死ぬか、という中で生活していたらしい。

そんな社会情勢の中、「関門トンネル」を通って九州に行きたいという氏に対して、父が、

「八幡製鉄所はいつ爆破されるかわからんのだ!」と言って、たしなめる。

凄まじい会話です。

そして、1944年の春休み。

もう後がないとして、氏は、東京駅から博多行きの急行列車に乗った。

学校の先生が次々と出征し、戦死者も出ている最中である。

 

しかし、行く先行く先で、学生服姿の氏を、どこの旅館も泊めてくれない逆境に耐えながら。

 

昭和20年7月 「疎開」という国策にそった旅行ができて幸せ

このくだりを読んだ時、私は涙が出そうになってしまった。

敗戦の1ヶ月前のことである。

18歳の氏は、弾痕で屋根に穴の開いた列車で揺られながら、感慨にふけっていた。

氏は、子供の頃から親の目を盗んで、電車に乗って旅をしていた。

学生になってからは「不要不急の旅行はやめよう」「遊山旅行は敵だ!」の時代になった。

氏の旅行は、たいてい、「してはならない旅行」であった。

とにかく、旅行目的をたずねられないかビクビクしながら列車に乗っていたのである。

 

ところが、敗戦の1ヶ月前。「疎開」という大義名分があり、胸を張って乗れる列車。

こんな旅は、久しぶりだな、と表現しています。

 

敗戦の足音が、自分の楽しみを正当化してくれた。

 

正直、感動しました(笑)

まとめ

氏は、数多くの旅行記を輩出されてますが、本著作の売れ行きは思わしくなく、それでいて一番愛着があると述べています。

私も同感で、良くも悪くも平和になり過ぎた日本において、戦火の中の旅行記なんて、目にできるものではありません。

 

「不要不急」が呼びかけられ、観光の旅ができなくなっている。

そんな今こそ、戦時中という有事の「不要不急」に直面した、それこそ人生を賭けて旅をしていた、氏の心境を想像してみるのもよいと思います。