古代から朝鮮とのかかわりで発展してきた対馬。
そのかかわりには、多くの民が犠牲となった戦いも含まれています。
しかしながら、「白村江の戦い」も「朝鮮出兵」も、あるいは神功皇后による「三韓征伐」も、対馬は戦場ではありません。
対馬の地が戦場になったのは、言わずと知れた元寇です。
元は、1274年の「文永の役」と、1281年の「弘安の役」の二度に渡って日本を来襲しました。
この「文永の役」のとき、元軍が上陸して主戦場となったのが、小茂田浜です。
中高生の学校教育では、元寇は神風台風が追い返した、ぐらいの知識でしかなかったですが、調べてみると対馬や壱岐ではたいへんな惨状であったことがうかがえます。
対馬の旅も、最終コースになりますが、「文永の役」の犠牲者の霊が祀られている「小茂田浜神社」を訪れました。
元寇の犠牲者の霊を祀る「小茂田浜神社」
お昼過ぎまで「和多都美神社」を見学していた私は、約1時間クルマを走らせ「小茂田浜神社」へ向かいました。
厳原からなら近く、クルマで20分くらいです。本数は少ないでしょうがバス便もあるはずです。
クルマを止めると目の前に港があるので、一瞬どこに神社があるのかわからなくなりましたが、これは砂嘴という海岸から砂が堆積した地形。
小茂田浜神社は、この右側の砂嘴の上にたっています。
今回の対馬の旅で、小茂田浜神社は、とくに来たかった場所のひとつ。
しっかりと案内板を読み込みます。
文永11年10月5日(1274年11月4日)。元軍は、兵3万、軍船900隻を率いて、小茂田浜を襲撃。
迎え撃つのは、宗助国率いるわずか80騎。
元軍は、1000人ほどの兵が上陸したという。どんな惨状であったのか、想像もつきません。
元軍は、対馬の将士のみならず、多くの島民を虐殺、あるいは捕虜としたという。
「文永の役」から700年の1974年。慰霊碑が建てられました。
犠牲者を偲ぶ祭りが、毎年11月の第二日曜日に行われているそうです。
霊魂でも宿るかのような鳥居。
本殿は、参道のいちばん奥にひっそりと鎮座していました。
創建は、元寇の年1274年。
祭神は、戦死者のほか、同じく犠牲となった宗助国です。
手を合わせて合掌します。
本殿のたもとには、なぜか不発弾のようなものが備えられていました。
元軍が戦法としていた「てつはう」の残骸だろうか。
元寇750年の宗助国騎馬像
宗氏の歴史というと、朝鮮出兵やその後の国交回復に尽力された宗義智が語られますが、宗助国も日本を護るために勇敢に戦った戦士。
上陸した元軍1000人に対し、80騎で迎え撃った宗助国の心境は、いかばかりであっただろうか。
助国をはじめ、家族、島民、全員が戦死しました。
そんな中、助国は、事態を本国へ知らせるため、兵衛次郎を博多に走らせました。
間違いなく、対馬は、日本を護ってくれている国境の島です。
佐須浦の海岸に打ち寄せる波
小茂田浜神社は、古戦場ともいえる佐須浦の海岸とつながっています。
夏には、海水浴やキャンプなどでにぎわうのだろうか。
神社にも誰もいませんでしたが、海岸にも誰もいません。
この向こうには異人の国がある。古代から、国境の島で暮らす人々は、どんな思いで生活していたのだろう。
この沖に、900隻の軍船が埋め尽くしたのかと思うと、震えがきます。
海から吹いてくる風が、冷たく感じられました。
対馬の旅も終わりです。
厳原の町に戻り、レンタカーを返して、港へ向かいましょう。