よく眠り、朝食も食べ、昨日までの疲労もだいぶ抜けました。
窓の向こうには、朝日に照らされたキガリの丘。
さて、今日はこの街をどう歩こうか。
そんな晴れやかな気分でホテルを出ました。
洗ったばかりの白のジャケットは当然まだ乾いておらず、緑のジャケットを引っ張り出して出発です。

アフリカの奇跡とルワンダの悲劇

ただ、今日最初に向かう場所だけは、いつもの街歩きとは少し違います。
キガリ・ジェノサイド・メモリアル。
すなわち、ルワンダ虐殺の記念館。
この国へ来た以上、避けて通るつもりはありませんでした。
昨夜、夜景の美しさに思わず息を呑んだルワンダの首都キガリは「アフリカの奇跡」と称されるほど、目覚ましい近代化と驚くべき治安の良さを誇る街です。
いっぽうで、わずか30年ほど前に、この地を襲った狂気と悲劇の歴史をもつのもルワンダです。
1994年、わずか100日足らずの間に80万人もの命が奪われたルワンダ大虐殺。
その犠牲者を追悼しているのが「キガリ・ジェノサイド・メモリアル」。
2023年に、ルワンダで初めて登録された世界遺産です。

私は、ホテルから坂道を下るようにして、そこに向かいました。

開館の午前9時。すでに見学者が多数いました。
そして、荷物検査のうえ、中に入ります。

入場料は無料。しかし20ドル程度の寄付が提案されています。
さらに音声ガイドも借りられるようですが、すべて出払ってしまっていたので、私は単身で記念館の中に入りました。
入館の際に、献花のためのバラが1本手渡されます。

キガリ虐殺記念館で目にしたルワンダの悲劇
館内は撮影禁止。
しかし、そこには目を覆いたくなるほどの悲惨な写真と、膨大な量の解説文が展示されています。
犠牲者の写真だけでなく、衣服、遺品、そして当時の出来事を伝える記録。
そして、写真に写っているのは、特別な人たちではありません。
学校へ通う子どもたち。
家族と並んで笑う父親や母親。
つまり、一般市民同士で殺し合いが起きたということ。
虐殺を主導したのはフツ過激派の政権や民兵組織。
しかし、その殺害には一般市民まで加わり、昨日まで隣人だった人間が、隣人を襲うという事態にまで発展してしまいました。
非戦闘員なので、凶器は農作業で使う斧やナタ。
それで、たった100日間の間に約80万もの人々が犠牲になったのです。
1日あたり8,000人・・・
館内の写真は、とても正視できる描写ではありませんでした。

この近年まれにみる虐殺はなぜ起きたのか。
いまなお謎な点があるようですが、虐殺が起こる前の歴史背景を簡単にまとめてみます。
- 19世紀のルワンダには、すでに王国が存在し、主にフツ族とツチ族が暮らしていた。
- 第一次世界大戦後にはベルギーが統治するようになり、ベルギーの植民地当局は、ツチ族をフツ族よりも優れた集団であるとみなした。
- ツチ族の有力者を、行政や教育の面で優遇する政策を進め、民族区分を身分証明書に記載する制度までが導入された。
- ところが第二次対戦後、フツ族による暴動(1959年ルワンダ革命)が発生すると、ベルギー当局はそれまでの姿勢を180度転換させ、フツ族の権力掌握を全面的に支援した。
- 1962年のルワンダ独立後も、両民族間の対立は解消せず。
何が原因であるかを断定するのは危険です。
しかし、こういった民族対立の構図がある状態で、1994年4月6日のルワンダのハビャリマナ大統領とブルンジのヌタリャミラ大統領を乗せた航空機がキガリ上空で撃墜された事件を契機に、フツ族の過激派が主導する虐殺が始まりました。
首都キガリでは道路が封鎖される。
身分証明書によって、ツチ族と確認された人々が、殺害の対象になる。
虐殺に反対するフツ族の政治家や市民も命を奪われる。
当時のフツ族主導の政府は、市民に対して「ツチ族を殺すこと」を犯罪ではなく、「国家を守るための共同作業(ウムガンダ)」であると宣伝しました。
この宣伝にはラジオが使われ、ポップミュージックを流しながら、親しみやすい口調で「ツチ族が私たちを殺しに来る。先手を打て。」と、具体的な名前や住所を連呼。
そのラジオの指示に従って、集団でナタを持ってツチ族を追いかけ、夜になると奪った財産やビールで酒盛りをする。
当時の状況は、まさに「お祭り騒ぎの狂気」だったという、生存者や元加害者の証言もあります。
人類のもつ倫理観など、完全に崩壊していたそうです。
和解を推し進めたルワンダ政府

ところで、「キガリ・ジェノサイド・メモリアル」の館内には、和解のプロセスまで仔細に解説されていました。
住民同士の、ただのケンカではありません。
殺し合いです。
しかしそれが、いったん治ったとはいえ、同じ街で一緒に暮らしていけるものなのでしょうか。
そこには、和解を強力に推し進めた現大統領(ポール・カガメ)の強力なリーダーシップがありました。
もちろん、カガメ政権には強権的だという批判もあります。
しかし、私がここで考えさせられたのは、隣人同士が殺し合った社会を、わずか30年ほどでここまで立て直すには、いったいどれほど強い力が必要だったのだろう、ということでした。
なかでも、伝統的な村の裁判制度「ガチャチャ」の復活が非常に興味深い。
これは、村の広場に村人全員が集まり、加害者が「自分が誰をどうやって殺したか、遺体はどこにあるか」を全て告白して謝罪します。
そして、真実を話した加害者は刑が軽くなり、村での奉仕活動を行うことで、地域社会へ戻ることを許されたというもの。
さらに象徴的な取り組みとして、政府の主導で「和解の村(リコンシリエーション・ビレッジ)」が作られました。
被害者(未亡人や孤児)と、刑期を終えて戻ってきた元加害者が、隣り合わせの家で暮らすこととし、農作業などの運営を「共同で作業せざるを得ない仕組み」にすることで、対話を生み出し、少しずつ信頼関係を修復していったそうです。
このあたりは、館内にも映像で流れ「憎み続けるエネルギーに、自分が潰されそうだったから」。
あるいは「毎日隣人を恨み、復讐を考え続けて生きることは、自分の心を刑務所に閉じ込めるのと同じ。自分の人生を取り戻すために、私は彼を許す必要があった。」といった、リアルな心の葛藤を聴くことができました。
当事者たちの「過去の憎しみ」よりも「未来の平和」を選び、毎日隣人として顔を合わせ続けているといった、悲劇から目を背けることなく前を向くといった住民たちの誓いが、ルワンダの奇跡的な治安の回復と経済発展に繋がったと言えるでしょう。
見学には1時間を見込んでましたが、事実を仔細に紹介する資料に圧倒され、私は記念館の見学に2時間近く要しました。
これは、英文のわからない単語をその場で翻訳しながら読み進めたというのも理由です。
本当は、もう少し時間が欲しかった。
でも、このあとキガリの街も歩きたい。
私は後ろ髪を引かれながら、記念館をあとにしました。
ひと通り拝見して、外に出ると、キガリの再生を象徴するビル群が立ち並んでいます。

キガリ街歩きの冒頭から、少々重い感傷になってしまいましたが、あのビル群の下には、悲劇を乗り越えたルワンダの人々の日常があります。
気持ちを切り替えて、それを見にいきましょう。